fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

むしろ後継者問題が入試問題で国際問題

まあ、読んでみてください。面白いから。

ムハンマドمُحَمَّد Muhammad)といえば、ムスリムイスラム教徒)の最も典型的な名前。イスラム教の開祖であるムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブの名であることから、好んで名付けられ、言語によってはモハンマド、メフメト、モハマッドなどと発音が変化する(ただし、トルコではありふれた名前となっているメフメトに対し、預言者はムハンメドと発音して区別される)。ムハンマドは、アラビア語で「数多く賞賛される者」を意味し、同じ意味のマフムード(Mahmūd)や同じ語根のアフマド(Ahmad)、ハーミド(Hāmid)なども、ムスリムに非常に多いね。例えばこの人。異種格闘技で有名になった右側の人ってのも在り。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームカシアス・クレイからカシアスX、次いでモハメド・アリに改めた

モハメド・アリMuhammad Ali [muˈhɑməd ɑːˈliː]、1942年1月17日 - 2016年6月3日)は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。ケンタッキー州ルイビル出身。本名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア(Cassius Marcellus Clay Jr.)。アフリカ系アメリカ人だが、イングランドアイルランドの血も引く。元WBAWBC統一世界ヘビー級チャンピオン。VS アントニオ猪木寛至(左側)

 

アブー=バクル(573年-634年、在位632年-634年)は、初代正統カリフ預言者であるムハンマドの親友で、ムハンマドの親族を除く最初の入信者であったとされる。ムハンマドによるイスラーム教の勢力拡大に貢献した。娘のアイーシャムハンマドに嫁いだため、ムハンマドの義父にもあたる。(ただし、年齢はムハンマドより3歳程度若い。)632年、ムハンマドが死去した後、選挙(信者の合意)によって初代正統カリフに選出された。しかし、かつてムハンマドに忠誠を従ったアラブ諸族の中には、その忠誠はムハンマドとの間で結ばれた個人的契約であるとして、アブー=バクルに忠誠をみせない勢力もあった。アブー=バクルは強力な軍隊を編成してこうした勢力を屈服させ、ムスリム共同体の分裂を阻止した。また、イスラーム勢力拡大のためにササン朝ペルシアや東ローマ帝国と交戦したが、こうした戦争を通じてムスリム共同体の結束を強める狙いもあったと推測される。アブー=バクルは、カリフ在位わずか二年にして病のため亡くなった。そのため、一連の征服活動は2代カリフに受け継がれることになった。

アリー・イブン=アビー=ターリブ(عليّ بن أبي طالب 'Alī ibn Abī Tālib、600年頃 - 661年)は、第四代正統カリフ(在位656年 - 661年)。預言者ムハンマドの従兄弟で、ムハンマドの娘ファーティマの夫ムハンマドイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。第三代正統カリフウスマーンが暗殺された後、第四代カリフとなったが、対抗勢力との戦いに追われ、661年に暗殺されてしまった。のちに彼の支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第二代、第三代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。アリーの墓廟はイラクナジャフにあり、カルバラとともにシーア派の重要な聖地となっている。

 

ムアーウィヤ(معاوية Mu'āwiya, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の五人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝三代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。ムアーウィヤを輩出したウマイヤ家はクライシュ族の名門で、ムアーウィヤの父アブー・スフヤーンはメッカ有力者として預言者ムハンマドに激しく敵対した人物である。ムハンマドがメッカを征服したのちに、イスラム教に改宗した。ムハンマドの死後、ムアーウィヤの兄ヤジードが初代カリフアブー・バクルによってシリアの征服を命じられ、ムアーウィヤはこれに従ってシリア駐留のビザンツ軍との戦争に従事した。640年に兄が死ぬと、ムアーウィヤは二代カリフウマルによりシリア州の総督(アミール)に任ぜられ、シリアの部族を掌握してビザンツ軍(=東ローマ)との戦いを進め、キプロス島ロードス島を征服してシリアに確固たる勢力を築いた。656年、第3代カリフウスマーンが暗殺されて第4代カリフにアリーが就任すると、ムアーウィヤはウマイヤ家出身だったウスマーン(ムアーウィヤの又従兄弟にあたる)の血の復讐を叫んでアリーと対立した。アリーと戦って次第に勢力を拡大し、660年にはエルサレムにおいてカリフ就任を宣言。翌661年、アリーがハワーリジュ派によって暗殺されたことにより、単独のカリフとなった。ムアーウィヤは、本拠地シリアのダマスカスを首都に定め、カリフ位の実質的な世襲化を始めてウマイヤ朝を開いた。680年、息子でムアーウィヤ朝後継者のヤズィードによって、後のアリーの子で後にシーア派の本流となるフサインとカルバラーのムスリムを虐殺=カルバラーの悲劇が起こる。これによって、ムアーウィヤのスンニー派イスラムの覇権を築いた。ムアーウィヤ朝は世俗化し、アラブ帝国イスラム帝国へと発展していく。後のシーア派との深き対立を後世に残すこととなった。

で、なぜイラストが挿入できないか? ないんです。絵も像も。偶像崇拝は禁止ね。

で、更に面白いのはここから

ファーティマ(راءالزه فاطمة)は、イスラーム教の開祖ムハンマドとその最初の妻ハディージャの娘。メッカに西暦614年(シーア派伝)または606年(スンナ派伝)に生まれ、ムハンマド死後まもなく632年メディナで没する。後世、彼女は女性が見習うべき理想の女性と賞賛されている。ムハンマドのいとこアリーと結婚し、彼との間に3人の息子と2人の娘をもうける。長男ハサン・イブン・アリー、次男フサイン・イブン・アリーの2人の息子がそれぞれシーア派の第2代、第3代イマームとして有名。アリーが第四代正統カリフとなったのはファーティマ死後のことである。人物像:スンナ派シーア派とでは彼女の人物像に対する説明が異なってくる。例えばスンナ派の歴史によれば、ファーティマはハディージャムハンマドの末娘として生まれ、若くして病死する。一方シーア派によれば、彼女はムハンマドの唯一の娘であり、末娘というのは夫アリーの正当性を貶めるためにスンナ派が広めたものとする、といったものだ。これらは、最初口承によって伝えられ、文章化されたのは100年以上後のことなので、どちらがより正確な事実なのかを判断するのは難しい。彼女はムハンマドに可愛がられ、ハサンとフサインムハンマドに可愛がられたとのことである。しかしそういった関係をムハンマドの三番目の妻アーイシャは快く思はず、指導者の座の奪い合いも相まってアリー夫妻を公然と批判する。ファーティマとアリーはムハンマド死後、その父のアブー=バクルと争う。さらにアリーはアーイシャと直接戦っているが、この時すでにファーティマは死亡している。シーア派はアリーあるいはアリーとファーティマの子孫だけがイマームになれるとしたので、イマームを名乗るということは彼女の子孫であると名乗ることとほぼ同意である。また彼女が初代イマームの妻でまた第二代、三代イマームの母親であるということが彼女のシーア派における立場を決定している。他にファーティマはイスラム圏の女性に多い名前 シーア派王朝ファーティマ朝は、彼女の名に由来する ファーティマの手と呼ばれる護符の崇拝 などの後世への影があるのよ。

更に、

ムハンマドの夫人たち正妻 徳川将軍もびっくり

1:カーディージャ(ハディージャ

2:サウダ

3:アイーサ(モハメドに嫁いだのは、彼女が8歳から9歳の頃でした。)

4:オム・サラマ

5:ハフサ

6:ゼイナブ

7:ジョウェイリヤ

8:オム・ハビバ

9:サフィア

10:メイムナ (ハレス出身)

11:ファティマ

12:ヘンド

13:アスマ (ソバ出身)

14:ゼイナブ(ホザイマ出身)

15:ハブラ

16:アスマ (ノーマン出身)

側女 17:メリー(クリスチャン、イスラムを信じずにモハメドの奴隷のままでいる) 18:レイハナ

19:オム・シャンク

20:メイムナ

21:ゼイナブ(3番目のゼイナブです)

22:クハウラ

家族と子孫ムハンマドイスラム共同体の有力者の間の結束を強めるため多くの夫人を持ったが、アブー・バクルの娘アーイシャが最愛の妻として知られる。賢妻として知られるハディージャとの間に生まれた男子は早逝したが、4人の娘のうちムハンマドの従兄弟であるアリーと結婚したファーティマから、ハサン、フサインの2人の孫が生まれた。この2人を通じてムハンマドの子孫は現在まで数多くの家系に分かれて存続しており、サイイドの称号で呼ばれている。サイイドはイスラム世界において非常に敬意を払われており、スーフィーイスラム神秘主義者)やイスラム法学者のような、民衆の尊敬を受ける社会的地位にあるサイイドも多い。ヨルダンやモロッコの王家もサイイドの家系である。なお、現ヨルダン王室は、ムハンマドの家門であるハーシム家の末裔であり、アラブ世界からは崇敬を集めている。(ただし、13世紀以降、イスラム社会で非アラブの比重高まるにつれ、ムハンマドの血を引いていることとともに、チンギス・ハーンの血を引いていることもまた重視されるようになった。チムール帝国、ムガール帝国などはその典型である) だからムガール=モンゴルなのよ。知らんけど。

ついでにメッカ以外の聖地にも行ってみる?

カルバラーのモスクカルバラーの位置(イラク内)

バグダードの南西にあり、ユーフラテス川に面すのがここ!
ヒジュラ暦61年のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが殉教した場所で、フサインの墓廟(写真)が建てられ、シーア派の人々の巡礼が絶えない聖地

カルバラー(كربلاء (Karbalāʾ))は、イラク中部の都市で、イスラムシーア派の聖地。首都バグダードの南にあり、ユーフラテス川に面す。2003年の人口は572300人。ヒジュラ暦61年のアーシューラーの日に、シーア派の第3代イマームとされるフサインが殉教した場所で、フサインの墓廟が建てられ、シーア派の人々の巡礼が絶えない聖地となっている。フサインの墓廟に隣接してシーア派マドラサイスラム学院)があり、イラクにおけるシーア派イスラム法学者イスラム聖職者)が集まるシーア派の学問の中心都市でもある。680年,フサインウマイヤ朝第2代カリフ=ヤジードヘの忠誠を拒否し,メッカからイラクシーア派の拠点クーファに向う途中,一族ら約200人とともにカルバラーの荒野でウマイヤ朝軍に包囲攻撃され,フサインをはじめほとんどすべての者が殉教した。これを契機にシーア派の宗教的色彩が一層濃くなった。悲劇はイスラーム暦ムハッラム月10日に起こったので,現在にいたるまで,この殉教日にはシーア国イランをはじめ,各国のシーア派教徒は悲嘆のうちに受難をしのぶ行事を挙行している。

こんな歴史語句を覚えるのは大変ですよ?

教義と信仰アッラーフ • 六信 • 五行 • ジハード•モスク • カアバ • ハッジ• 指導者ムハンマドハディージャアーイシャアブー=バクル •ウマル • ウスマーン • ファーティマ• 預言者 • カリフ• イマームウラマー• アリー•法と規範•クルアーンシャリーアハディース•歴史的展開と潮流•ウンマスンナ派シーア派スーフィズムワッハーブ派イスラム主義

でもこんな話は面白きかな?

アブド・アッラフマーン1世(Abd al-Rahman I、731年-788年)は、後ウマイヤ朝の初代アミール。ウマイヤ朝の第10代カリフ・ヒシャームの孫(在位:756年-788年)。731年、ダマスカス郊外にて生まれた。750年、アッバース朝によってウマイヤ朝が滅ぼされたとき、ウマイヤ朝の王族の多くは虐殺されたが、アッラフマーン1世は命からがらシリアから脱出し、旧臣に守られながらモロッコまで逃走した。その後の755年、ウマイヤ朝旧臣の援助を得てイベリア半島に勢力基盤を築き上げ、翌年にはコルドバに入ってアミールに即位し、後ウマイヤ朝を建国するに至ったのである。即位後は国内安定化のため、王朝に反抗的な勢力を徹底的に弾圧した。しかしこの弾圧により、反抗的勢力の一部がフランク王国のカール1世(大帝)に援軍を要請したため、フランク軍の侵攻を受けることとなる。一時はウマイヤ軍も危機に陥ったが、778年にサラゴサを攻めることでフランク軍を撤退させることに成功し、これにより国内の基盤を磐石なものとするに至ったのである。ちなみにこのときのアッラフマーン1世の勝利は、12世紀にフランスの武勲詩・ローランの歌で絶賛されている。788年、58歳で死去し、後をヒシャーム1世が継いだ。アッラフマーン1世は少年時代の逃避行における苦難のおかげか、智勇に優れた優秀な人物として成長を果たし、周囲からは『クライシュの鷹』と称されて恐れられた。また、文学においても才能を発揮し、多くの詩歌やモスクを作るなど、彼の時代に後ウマイヤ朝は大いなる発展を遂げたのであった。(Abd al-Rahman I、731年-788年)は、後ウマイヤ朝の初代アミールウマイヤ朝の第10代カリフ・ヒシャームの孫(在位:756年-788年)。731年、ダマスカス郊外にて生まれた。750年、アッバース朝によってウマイヤ朝が滅ぼされたとき、ウマイヤ朝の王族の多くは虐殺されたが、アッラフマーン1世は命からがらシリアから脱出し、旧臣に守られながらモロッコまで逃走した。その後の755年、ウマイヤ朝旧臣の援助を得てイベリア半島に勢力基盤を築き上げ、翌年にはコルドバに入ってアミールに即位し、後ウマイヤ朝を建国するに至ったのである。即位後は国内安定化のため、王朝に反抗的な勢力を徹底的に弾圧した。しかしこの弾圧により、反抗的勢力の一部がフランク王国のカール1世(大帝)に援軍を要請したため、フランク軍の侵攻を受けることとなる。一時はウマイヤ軍も危機に陥ったが、778年にサラゴサを攻めることでフランク軍を撤退させることに成功し、これにより国内の基盤を磐石なものとするに至ったのである。ちなみにこのときのアッラフマーン1世の勝利は、12世紀にフランスの武勲詩・ローランの歌で絶賛されている。788年、58歳で死去し、後をヒシャーム1世が継いだ。アッラフマーン1世は少年時代の逃避行における苦難のおかげか、智勇に優れた優秀な人物として成長を果たし、周囲からは『クライシュの鷹』と称されて恐れられた。また、文学においても才能を発揮し、多くの詩歌やモスクを作るなど、彼の時代に後ウマイヤ朝は大いなる発展を遂げたのであった。

母親からの遺伝で見た目がアラブ人ぽく無くて逃亡で来たらしい。ベルベルの協力も当然あっただろうし。生母はセウタ地方のベルベル人ナフーサ族アラビア語版だった

ギリシャ神話に登場するヘラクレスの柱は、モンテ・アチョか、セウタから西数kmのモロッコ領のジュベル・ミュザ(英語版)のことではないかと考えられている。

対岸は? 半島の大半を占める特徴的な岩山(ザ・ロック)は、古代より西への航海の果てにある「ヘラクレスの柱」の一つとして知られてきた。半島は8世紀よりムーア人レコンキスタ後はカスティーリャ王国、16世紀よりスペイン、18世紀よりイギリスの占領下にあるが、その領有権を巡り今もイギリスとスペインの間に争いがある。地名の由来は、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島を征服したウマイヤ朝の将軍であるターリク・イブン・ズィヤードにちなんでおり、アラビア語で「ターリクの山」を意味するジャバル・ターリク(Jabal Ţāriq、جبل طارق)が転訛したもの

国際水路機関ジブラルタル海峡の範囲を次のように定義している。

ジブラルタル海峡 Strait of Gibraltar(Maḍīq Jabal Ṭāriq=後半2単語を10回行ってみ)は、
ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を隔てる海峡。最狭部14キロonly!

8代目のアミール(総督/提督)

アブド・アッラフマーン3の統治の下で後ウマイヤ朝は経済的発展を成し遂げた。929年にアブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、イスラム世界ではアッバース朝後ウマイヤ朝の二人のカリフが並立することになった。アブド・アッラフマーン3世とその息子ハカム2世の下で文化的な発展を経て、後ウマイヤ朝アッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時(アブド・アッラフマーン3世治世期)のコルドババグダードには敵わなかったが、エジプトシリアマグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されており、西欧で最大の都市であった。

 

そんなイベリア半島の突端の地は、、、

1462年メディナ・シドニア公ジブラルタルを奪取し、750年間に渡るムーア人の支配を終えた。 メディナシドニアは追放されたスペイン・ポルトガルユダヤ人にジブラルタルの土地を与え、コンベルソのペドロ・デ・エレアがコルドバセビリアから一団のユダヤ人を移住させ、コミュニティが建設された。そして、半島を守るため駐屯軍が設立された。しかし、セファルディムとなったユダヤ人は数年後にコルドバか異端審問所に送還された。フェルナンド2世スペイン王国を打ちたて、1501年にはジブラルタルスペイン王国の手の下に戻った。同年にイサベル1世からジブラルタルの紋章が贈られた。