fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

歴史総合のburden

勤務校で採択しているのは帝国書院。で、背表紙の歴史年表の一番上は1700年、、、て

いきなりアメリカ独立戦争ですか? 提示されているシラバスも17世紀からって書いてあるけど、、、、それ以前の歴史って無視?ですかい。いやそれ以前に教科書自体の本文はP1から始まる「歴史の扉」は沢山の文字(文章)を読まなければいけない。でもその文章を理解するための知識はどこから来るのだろうか。P33? 

「問い」を問いにしてみようか? で、いきなりお茶かい? Boston Tea Party Misconceptions - America: Facts vs. Fiction | AHC

often see statements that the tea thrown overboard in Boston Harbor was from India because the tea belonged to the East India Company.  But the tea aboard the three British ships docked there on the evening of December 16, 1773 was produced in China, not India. Tea would not be cultivated in India or Sri Lanka until the 19th Century. And it was all loose tea because the colonists had no taste for tea bricks, and tea bags were still 140 years in the future.

Benjamin Woods Labaree’s The Boston Tea Party says the three tea ships contained 240 chests of Bohea, 15 of Congou, 10 of Souchong (all black teas), 60 of Singlo, and 15 of Hyson (both green teas). It may surprise you to know that green tea accounted for about 22% of the shipment’s total volume and 30% of the value.

One-third of the tea exported from China in the 18th Century was green tea, with spring-picked Hyson being one of the favorites. The first tea plucked in the spring is always the finest, which the Chinese designated yu-tsien or before-the-rains tea. The English traders who bought the tea in China thought the Chinese name of this tea sounded like the name of a wealthy East India Company director in London named Phillip Hyson, and forevermore the young spring tea took on Mr. Hyson’s more pronounceable moniker.

もちろんFakeって言えばあの三重苦の人。1800年春、ナポレオンは予備軍を率いてグラン・サン・ベルナール峠を経由してアルプスを越えた、ってやつ。峠は、古代からアルプス山脈を越える重要な交通路であった。紀元前218年ハンニバル戦象を連れてアルプス越えを行った進路には諸説あるが、この峠かもしれない候補の一つ。ローマ帝国の皇帝アウグストゥスが街道を敷設し、峠にユピテルの神殿が祭られた。753年にはローマ教皇ステファヌス2世フランク王国の国王ピピン3世と面会するために峠を越え、800年にはカール大帝ミラノでの戴冠式の帰りに越えている。ってwikiにもあるよ。

undefinedで 奴はこの時何歳だ?

undefined1800-1769だから31歳か? フランスの画家、ジャック=ルイ・ダヴィッド作の『サン・ベルナール峠を越えるボナパルトこの作品は、数点以上のヴァージョン、レプリカが存在。はじめにスペインのカルロス4世(在位1788~1808)の注文によって第一作が描かれ、それを見たボナパルト自身の依頼により、第二作が描かれた。その後、ダヴィッドは弟子を使って三点のレプリカを制作した、とされている。第一作は、フランスのマルメゾン城美術館、第二作は、ベルリンのシャルロッテンブルク宮に所蔵。ヴェルサイユ宮殿に二枚、ウィーンのベルヴェデーレ宮殿に一枚所蔵と。 https://ja.wikipedia.org/wiki (最終確認2018/8/18)p138 「サン・ベルナール峠を越えるボナパルト」 パリ,1800-01年,カンヴァスに油彩,271×232cm,署名 L.DAVID,L'an Ⅸ,マルメゾン国立美術館,ルイユ=マルメゾン

でも実際は馬でアルプスを越えるのは不可能です。ロバに乗ってアルプスを越えた。また、マント等も着用していなかった?だってあの峠道結構寒いぜ。まあ、英雄としてナポレオンのイメージをフランス国民に与えることが第一目的だからね。寒いぜ!

「ジャック・ルイ・ダヴィッド作  1812年
ナポレオンの代表作から10年後。ダヴィッドは彼を等身大の人物として描いた。身体は小太りで、小柄、頭は少し薄くなっている。身長は167、8 センチと推定されています。素顔に一番近い?かな???

どこにいるんだ?小さくて分からん? 

ピラミッドの戦いbataille des Pyramides)は、エジプト遠征を決行したナポレオン率いるフランス軍オスマン帝国エジプトマムルーク軍が、1798年7月21日に、ナイル西岸のカイロ近郊で行った戦い。戦場から15km、地平線上にしか見えない位置だからこれもFAKEだぜ。それでもナポレオンはこの戦いにピラミッドの名をつけた。これはうまい!

「背は小さくとも私の精神は大きい」と周囲に 言っていた

歴史の秘密ばかり暴くのはどうかと思うが、

情報リテラシーの演習だね。印象操作。情報弱者よりはいいだろう。