fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

31 スエズ運河完成1869

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下記も見てみて。 https://fujinosekaic.hatenablog.com/entry/20201003/1601734933

fujinosekaic.hatenablog.com

ヨーロッパ人にとって、アジアへの最短距離を可能とする地中海─紅海を結ぶ運河は長年の夢だった。ナイルと航海を結ぶ運河は、すでに古代エジプト、紀元前 2000年に造られていたと言われている。 近代に入ってからも、東方貿易を行ったヴェネツィア商人やルイ14世、ナポレオンが構想している。中でもナポレオンは、エジプト遠征に同行させた学術調査団に実際に測量をさせている。調査団の出した結論は、紅海と地中海の水位差が10mに及ぶため工事は無理であるというものだった。ところが実際にはその調査結果は誤りであり、実際には水位差は1~2mにすぎず、陸地はほぼ平坦で、しかも途中に散在する湖を結べば運河の建設は可能だったのである。フランス人レセップスによる運河建設そのことに気づいたのは、フランスの外交官フェルナンド ・ド・レセップスだった。1805年よりエジプトは、事実上太守ムハンマド・アリー支配下に置かれていた。彼は近代的軍隊の創設、教育改革、工業の振興などエジプトの近代化に努めたが、彼を助けたのがナポレオンによってエジプト大使に任命されたレセップスの父だった。レセップス自身も父を継いで外交官になるが、彼は外交官の職を辞してまでスエズ運河の建設に全精力を注ぐことになる。レセップスはムハンマドの息子サイド・パシャに巧みに接近し、1854年、念願のスエズ運河建設の許可書を手にする。1858年、資本金2億フランの国際スエズ運河会社が設立され、 40万株が公募された。その過半数にあたる20万7,160株をフランス人が、17万7,642株をエジプト政府が引き受けた。このころイギリスは、インドへのルートとして、スエズアレクサンドリア間の鉄道建設を始めており 、レセップスの運河計画に激しく反対していた。だから、イギリスからはもちろん1株の申込みもなかった。

1859年4月25日、レセップスは地中海岸の出口となる新しい港ポートサイド(サイドの港)で起工式をあげた。彼は起工式で「あなたがたが運ぶものは、単なる土ではない。それは、あなたがたの家庭とこの国に、繁栄を運ぶのだ」と高らかに宣言したが、実際の工事は150万人のエジプト人による無給労働によって行われた。しかも、工事中、12万人が主にコレラによって命を落としているのである。イギリスは、スエズアレクサンドリア間の鉄道建設のときはエジプトの強制労働に頼ったというのに、それを棚に上げてフランスによる強制労働をさかんに非難した。長さ168kmという世界最長の運河は、着工から10年をかけて完成した。11月17日に行なわれた開通式には、招かれたヨーロッパ各国の元首を乗せた48隻の船がポートサイドから、そしてスエズ側からはエジプトの軍艦が運河に入り、中間点のチムサ湖で合流した。 実はこの日のためにヴェルディのオペラ「アイーダ」の上演が予定されていたが、完成が間に合わず、代わりに「リゴレット」が上演された。「アイーダ」が披露されるのは2年後の1871年まで待たなければならなかった。

スエズ運河が完成し、喜望峰回りの半分の距離でインドに達することができるようになると、あれほど運河建設に反対していたイギリスの態度は一変する。1870年、レセップスはロンドンに招かれ、ヴィクトリア女王から勲章を受けた。また、スエズ運河を利用する船も、毎年一番多いのはイギリス船であった。そこで、イギリスは、運河株式会社の株を買入れるチャンスを虎視眈々と狙うようになった。チャンスは意外と早くめぐってくる。ヨーロッパ諸国からの負債によって着々と行政・司法・軍事の近代化を進めてきたエジプト政府が、いよいよ借金でクビが回らなくなってしまったのである。とうとうパシャは、 1875年11月、スエズ運河会社の株17万6602株を売り出すことにし、その旨フランス政府に伝えられた。しかし、フランスの事情は、スエズ運河開通後1年で大きく変わってしまっていたのである。 1870年、ナポレオン3世は普仏戦争に敗れ退位、フランスはドイツによって50億フランもの賠償金を課せられた。こういうなかではとても巨額のエジプトの持ち株を買い取る余裕はなかったのである。1875年11月14日の夕刻、イギリス首相ディズレイリは、ユダヤ人の大富豪ロスチャイルド邸で主人のライオネルと夕食をともにしていた。そこへ召使が一通の電報をもってきた。それは、エジプトのパシャがスエズ運河の株を売り出そうとしている、という極秘情報であった。値段は1億フラン (400万ポンド)だという。「よし、買おう」と首相は言った。翌月曜日、ディズレイリは、買収の費用全額をロスチャイルド家から借金することに決め、閣僚の委任を取りつけると、すぐさま馬車をロスチャイルド家に走らせた。「政府は明日までに 400万ポンドをぜひとも必要としております。よろしく」。ライオネルはこの伝言を聞くと、「よろしい、ご用立てしましょう」といとも簡単に答えたという。返事を聞いたディズレイリは、ヴィクトリア女王に次のような報告をした。“It is Yours, Madame.”48時間後には、エジプト所有のスエズ運河株式会社の株がイギリス政府に渡った。イギリスにとって、西アジアからインドにかけての帝国主義的戦略において、扇のかなめにあたるスエズ運河の管理に圧倒的な発言権を得たことは非常に大きな意味があった。いっぽう、エジプトの財政は、運河会社の株を手放したところで焼け石に水であった。結局、エジプトの財政は、イギリス・フランス両国から財政監督官が派遣されて、歳入・歳出を管理することになった。そして、 1881~82年に起こったアラービー=パシャの乱を単独で鎮めたイギリスが、以後72年間にわたってスエズ運河地帯を支配下に置くことになる。って文章を読んだよ。出典?探して見てくれ。教科書だって出典ちゃんと出てないし。それを俺らに求める?