fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

NZからNYへ みんなみんなみな

BOEの企画で東久留米総合高校生(:以下クルソウ生)から4名がNew Yorkに行けることになりました。太平洋を越えてエコノミークラス症候群の危険に耐えながらのNYまでのフライトby 鶴丸航空とNYCでの1週間の滞在は有益だとは思います。でも、その前に「クルモノ」は拒まず、いや寧ろ歓迎しよう!という情報提供です。

公式には以下の情報しかありません。

1 受入人数
生徒 8人
2 受入期間
令和7年7月7日(月)~8日(火)及び同月10日(木)~11日(金) (計4日間)
3 留学生派遣元国・地域
ニュージーランド

でもこんなイメージでやっていきたいと思います。同じ総合学科の杉並総合高校でこんな感じでやってきました。

熱烈歓迎 US50s

日経新聞掲載記事も 朝日だったかも? サンケイ・読売ではない

熱烈歓迎 Sweden まあ他にもKorea、China, 台湾も

当然姉妹校は隔年行事で定期的に相互訪問してたので

伝統文化!で和太鼓部があった杉総。弓道や女サカとかにも協力してもらった。

で、こんなことを「生徒主体」でやって欲しいのです。コロナ禍も明け、街にはインバウンドや仕事で訪日・来日数は増えてますが、「駅前留学」ならぬ「クルソウ留学」をしてみませんか? 期末テストも終わって「少し暗い気分」の時かもしれませんが、New Zealand (僕とI氏とK教諭)と縁のある国である事からも、「歓迎」してあげたい8名の受け入れをよろしくお願いいたします。詳細はこれからになりますが、生徒会を中心に「受け入れチーム」を結成して対応したいと思います。1年生からは各クラス2名程度、2・3年生は有志で合計40人ぐらいのクルソウ生が関与してくれればと思っています。 こういう受け入れ企画をやっていると以下のようになりました。

無料でGO! @在インドネシアJKT日本大使館にて 外務省とBOEの企画 

無料でGO! 文部科学省「トビタテ留学Japan」 & 自腹でGO!孤児院ボランティアも

なお、杉並総合高校(NICE主催)では夏に下記の企画を実施予定なのでクルソウ生も参加できるように主催者に交渉しました。20万程度の負担で行けることは他ではないと思ふ。旅行会社や他の研修旅行と違います!




今年度も今年度こそ、、、最後の悪あがきか?

歴史総合2024を振り返って|63 Ace

ってのを年度末の3月に書きました。別段エープリルフールでもないし、今更ながらに新年度の抱負ってのもない。僕の勤務=雇用状況には変化も無く(変化できず)、職場・自宅の東京エリア042と、実家の千葉県(とわ言え市川だが)、環境活動(海上にどれだけ出れるか?帰ってこられるか)のベースである鎌倉の3拠点生活に変化ありません。東京都を退職とか、別の教育機関に勤務とかの激変はできひんし、、、いや、家族の問題(老親二人をどうするか→確定申告も含めて)が今年度の最大の課題だろう。とりあえず短期勤務という8割勤務(当然賃金もだから半額ね〜ふるさと納税の意味が無いぐらいです泣)であることから、年金ライフを指折り数えながらも今できることを最大限努力したい。という事で、先日ソウル(過去にクル総姉妹校締結した登村高校@金浦空港近くーで日本語の担当者とお話もできた)にも行ってきたところです。で、今年度できそうな事をいかにまとめる。

1 インドネシアの孤児院ボランティア活動の再開

2 社会科関連の授業 世界史教員だからね〜

3 社会科以外の担当科目 探究と探求に感謝

4 国際交流の分掌業務 

5 体力あるうちにやれる事 海と自転車と食

って事で追々リンクを貼って行きます。
f:id:fujinosekaic:20250406161010j:image

 

 

 

身内の恥さらしとも?Part2

年末前に身内の恥晒しとは言え大きな問題があると思って都立高校教諭の「研修」の在り方の課題を記しておきましたが、https://note.com/63_ace/n/nf078bf913354?sub_rt=share_b

先月の「都立高校入試」にも少し不安があったのでまとめておきます。特に「歴史総合」の導入もあって真剣に考える時期に来ているかとも思うので「日本史を世界に開く」べく報告します。まず、典型的な日本史的な問題(まあ、中学校の事を考えるとしょうがない)なんですが、まず読んでください。

画像
https://www.kyoiku.metro.tokyo.lg.jp/documents/d/kyoiku/nyu20250221_sh002
政府が設置した学校において日本画や西洋画の指導が行われる中で, 1867年の万国博覧会では全て浮世絵 だった日本からの絵画の出品が, 1900年は全て日本画と西洋画になった。
てのが公式解答?ですが。ここに少し疑問があります。

例えばAIに聞いただけでも AI様曰く

確かに、1867年のパリ万国博覧会では、日本からの出品は全て浮世絵だったのに対し、1900年のパリ万国博覧会では、日本画と西洋画が展示されたというのは事実です。しかし、この事実を「公式解答」として捉えるには、少し注意が必要です。

疑問点と補足説明

  • 「全て」という表現: 1867年の万国博覧会で、本当に「全て」の日本からの絵画が浮世絵だったのか、という点です。当時の日本は、西洋美術の影響を受け始めており、西洋画も存在していた可能性はあります。ただし、当時の日本画は、西洋画と比べて知名度が低く、また、西洋画は日本画に比べて、当時の西洋美術の潮流に合致していたと考えられます。そのため、1867年の万国博覧会では、浮世絵が中心的に展示されたと考えられます。

  • 「公式解答」の根拠: この事実が、どのような文脈で「公式解答」として提示されているのかが不明です。もし、試験問題や教科書の内容であれば、その出題範囲や教科書の内容を参考に、より詳細な情報を確認する必要があります。

1900年の万国博覧会での変化

1900年の万国博覧会では、日本画と西洋画が展示されたことは事実です。これは、明治時代以降、日本が西洋美術の影響を強く受け、西洋画が発展したことを示しています。また、日本画も、西洋画の影響を受けながらも、独自の進化を遂げていました。

まとめ

1867年と1900年の万国博覧会での日本絵画の展示内容の違いは、当時の日本の美術状況の変化を反映しています。しかし、「全て」という表現や「公式解答」の根拠については、より詳細な情報が必要となります。

参考資料

  • 「日本美術史」 美術史の教科書

  • パリ万国博覧会 関連書籍やウェブサイト

AI先生の解説だと以下の様になります。
1867年から1900年にかけての万国博覧会で、日本から出品された絵画の種類と数の変化には、政府が設置した学校の役割が大きく影響しました。

1867年のパリ万国博覧会では、日本画や西洋画の出品はなく、主に浮世絵が出品されました(100点)。当時の日本はまだ伝統的な文化や美術が主流であり、西洋美術の影響はほとんどありませんでした。

その後、1889年に東京美術学校が開校し、日本画科が設置されることで、伝統的な日本画の再評価と教育が進みました。また、1896年には西洋画科が追加され、西洋美術の技法が正式に教えられるようになりました。これに伴い、画家たちは西洋美術を学び、独自の表現を模索し始めました。

1900年のパリ万国博覧会では、浮世絵の出品がゼロとなり、西洋画が37点出品されました。この変化は、日本が伝統美術に加え、西洋の技術や表現を取り入れ始めた近代化の象徴とも言えます。特に西洋画の出品数の増加は、東京美術学校の西洋画科の設置や、海外留学を経て帰国した画家たちの影響が大きいと考えられます。

このように、政府による学校設立や教育の充実が、万国博覧会への出品内容に直接的な影響を与え、日本美術の発展に貢献しました。で、その万博なんだけど、維新と平蔵の中抜きフィンランド木材の目にも注目が行っているのでいかに少し紹介。

画像
©gallica.bnf.fr / BnF 今だとエッフェル塔のところです。これも万博ですね。
画像
Vue officielle a vol d'oiseau de l'exposition universelle de 1867

いやそれ以上に、世界史側から考えると、開催側からの視点が欠如していると思うのです。受験世界史も超えながら少し勉強にもなるのでまずパリ万博からという事でこの男が何を考えたのかも大切かも。

画像
「世界のフランス、産業先進国フランス」をアピール

以下はwikiからの引用 どうやって浮世絵をもっていったのかを考えてみ!
初めて日本の横浜港へ入港したメサジュリ・マリティム社の船は、1863年のアレテューズ号であった[8]1864年に着任した駐日フランス公使レオン・ロッシュは、日本の蚕に目を付けMM社船での輸送を企図し、マルセイユ─横浜間の航路が開設された[7]。その第1便は1866年9月7日に横浜へ入港したデュプレ号(Dupleix)で、乗客の他に在日フランス人宛ての郵便物も積んでいた[15][注釈 3]

当時のマルセイユ─横浜間の航海はおよそ50日程度で、1867年にはパリ万国博覧会に向かう徳川昭武ら幕府の使節団が、MM社のアルフェ号(Alphée)で横浜を出港した[16][注釈 4]。アルフェ号は大型船で通常はマルセイユ─上海間の幹線を運航しており、上海(後に香港)から横浜へは小型の船が使われていた。日本からの乗客は上海ないし香港で大型船に乗り換える必要があった[17]。Messageries Maritimesの船「Alphée」は、19世紀に活躍した蒸気船の一つです。この船は以下の特徴を持っていました:

  • 建造年と仕様: 「Alphée」は1861年に建造され、総トン数は約1847トンでした。蒸気機関を搭載し、当時の最新技術を取り入れた船でした。

  • 役割: 主に郵便や貨物の輸送を担い、ヨーロッパとアジアを結ぶ航路で活躍しました。特に極東地域への航路で重要な役割を果たしました。

日本からの貿易品として運ばれたのは、絹、蚕種のほかに、漆器、陶磁器、茶などがあった[18][19]。MM社の横浜事務所は、当初居留地1番ジャーディン・マゼソン商会内にあり、後に居留地10番のホテル・ニュー・グランド近くに移った[18]。その後神戸にも支店を構えていた[20]

で、考えるべきなのはどうやって持って行ったのかって事です。逆日本への途上で遭難した船も万博に関連があります。

MM社の船で日本で海難事故にあったのは、1874年に伊豆半島沖で沈没したニール号Nil)である[21]。この事故で乗客乗員90名のうち助かったのは4名だけで、ウィーン万国博に出品し持ち帰った品物などがことごとく沈んでしまった[21]

画像
Messageries Maritimesの船「Dupleix」は、19世紀後半に活躍したフランスの郵便・貨客船。
基本仕様 長さ: 約84メートル(後に92メートルに延長) 幅: 約9.4メートル 総トン数: 1484トン
乗客定員: 約100名 推進方式 初期は2気筒の垂直蒸気機関を搭載し、後に3気筒の複合蒸気機関に改装。 最大速度は約12ノット。 1862年にフランスのラ・シオタで建造され、1865年には上海と横浜を結ぶ航路を開設。
でもこの段階の船は基本帆走です。上記は補助的で今のハイブリッド車的な存在。

当時の徳川ってのがフランスと深い関係にあったこともあり、1864年12月8日(元治元年11月10日)、ロッシュは幕府からの製鉄所と造船所の建設斡旋を依頼された。このことがきっかけとなり、ロッシュは幕府寄りの立場を取るようになる。また、新任の英国公使ハリー・パークスへの対抗意識もあり[3]、内政不干渉を建前とする英国とは異なり、フランスは積極的に幕府を支援していく。主な政策は以下の通りである。

さらに、徳川慶喜が将軍となると幕政改革の構想を建言し幕府中心の統一政権確立に努めた(慶応の改革として実現する)。ロッシュの幕府への極度の肩入れは、フランス本国の意向を無視したものとなり、最後は「個人外交」の様相を呈してきたため、フランス外務省はロッシュに帰国命令を出したが、帰国命令が届いたときにはすでに幕府は崩壊していた皮肉、その人が

画像
Michel Jules Marie Léon Roches、1809年9月27日 - 1900年6月23日 昔にしては長生きだわ。

で、解答の方なんだが、ある意味「もはや戦後では無い」様に「浮世絵じゃ無い」って事と、この時点で既に浮世絵はかなり国外(ボストンとか)に流出していたはず。更にこの視点も考えるべきなのが、下記
開国・新政府成立により、欧化政策が勧められ、明治9年(1876年)には、工部省が「工部美術学校」を設立し、イタリア人画家・彫刻家・建築家を招聘する。しかし政府は、輸出品として、ヨーロッパの真似ではなく、在来の工芸品の方が売れることを認識する。そして、国内体制を強固にするには、天皇の権威を高め、「国史」の重要性を認識し、歴史画が尊ばれることとなる。また、欧化政策によって冷や飯を食わされていた狩野芳崖橋本雅邦らは、文部官僚の岡倉天心と、政治学・哲学のお雇い教師 として来日したが、その後日本美術に開眼し、天心と行動を共にするアーネスト・フェノロサの、洋画と南画を排斥した、新しい絵画[注釈 24]を生み出す主張に同調する[132]。てのは有名な話。でも、反面教師的に考えるべきこととして。
明治時代、日本の美術文化の振興に努めたお雇い外国人のE・フェノロサ(米・1853-1908)、そして日本美術院の創設者であり、美術行政家・美術運動家の岡倉天心(1863-1913)の両名が、ボストン美術館の東洋部の起ち上げに奔走し、浮世絵に限らず多くの日本美術が同館に収蔵されることになりました。25年以上前にNCSSのついでに父親連れてマサチューセッツ゚まで見に行った時にはそのありがたみを余り感じ無かったけど、寧ろ高齢者割引きに感謝でした。

彼らが日本の文化財を国外に流出させた、という批判もあります。しかし、とりわけ東京を中心にした文化であった浮世絵に関しては、国内での評価がさほど高くなかった明治期に、良質な作品を収集し国外に持ち出し広く紹介した人々がいたからこそ、大正12(1923)年の関東大震災、そして昭和20(1945)年の東京大空襲による消失を免れ、今日の世界的な評価を確立できたとも言えます。その意味でもパリ万博で木と紙の展示が重要な意味を持ったのかもしれない。

皮肉な1900年のパリ万国博覧会における日本の出品物は、伝統的な美術品や工芸品を中心に構成されていました。以下が主な内容:

  • 古美術品: 日本館では、法隆寺金堂を模した建築の中で、御物を含む古美術品が展示されました。これにより、日本の伝統的な美術や文化を海外に紹介することを目的としていました。

  • 茶店と酒舗: 日本の茶文化を紹介するために、紅茶、ウーロン茶、抹茶などが販売されました。また、兵庫県の酒造メーカー連合が日本酒を販売する酒舗も設けられました。

  • 日本庭園: 日本館の前には小池を設け、日本庭園風の景観を作り出しました。

  • 建築展示: 日本固有の建築法を示すために、日本館自体が伝統的な建築様式を採用していました。

  • 1900年のパリ万国博覧会における日本の絵画展示についてですが、当時の日本の出品は、西洋画が主で、日本画や浮世絵の展示は見られませんでした。この変化は、明治時代の日本における美術教育や文化政策の影響を反映しています。

    • 西洋画の出品 1900年には、西洋画が37点出品されました。これは、東京美術学校に西洋画科が設立された(1896年)ことや、西洋美術を学んだ日本人画家が増えたことが背景にあります。

    • 日本画・浮世絵の不出品 一方、1867年のパリ万博では浮世絵が展示された一方で、1900年には日本画や浮世絵が出品されませんでした。これは、明治政府が西洋化を推進し、国際舞台での日本の近代化をアピールする意図があったと考えられます。

当時は日本画や伝統美術も国内で評価されていたものの、国際的には西洋画を中心とした「近代美術」を重視する傾向があったため、出品内容にもその影響が見られます。byAI
まあ、実際日清があり、義和団から日露への流れの中では「浮世離れ」の感も否定できない。
で、そんな明治天皇のご生誕(徳川の崩壊)から崩御までの出来事を、「画題」の年代順に前半を日本画40枚、後半を洋画40枚で展示してあるのが、聖徳記念絵画館=今公園の緑を緑のおばさんが切る?for 三井(すずちゃんのCMの不動産屋)と伊藤忠商事(瀬島参謀の!!)で世界のサカモト教授やサザン(アミューズ事務所)の桑田に反対された現場です。

画像
絵画館を建設するときに我が一族の土地を供出しただけに Do't touch it  破壊すんなよ!

日本は美術工芸に関して積極的に参加しました。帝室(皇室)と宮内庁も出品に関わり、御下命により、帝室技芸員を中心に23名の作家に出品作の制作が依頼されました。出品作は、各作家の代表作と位置づけられ、日本の美術工芸史でも重要な作品となりました。1900年パリ万国博覧会―御下命制作品あるいは宮殿を彩った帝室技芸員の作品として展示されていたのだから「政策的な意図」は、10点満点です。しかも日本を代表する作品ばかりという触れ込み。
デモね、いや帰国後すねちゃった=パリ万博に出品された日本洋画を見て「実に顔色なし」として、帰国後、油彩画よりも工芸デザインに傾倒していく浅井忠、この折の渡仏以後、ほとんど制作を行わなくなり、美術教育・行政に向かっている久米桂一郎のように、この万博を機に渡仏し、帰国後、仕事の方向に変化を示す日本画家も少なくない。って©独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所、、、、出題意図とは逆なんだよね。

  • 日本人にとってパリとは何であったのかについて。

    • 『麗都』パリ誕生までの歴史的経緯
       1852年から1870年までの第二帝政期にナポレオン三世とセーヌ県知事オスマンにより都市改造事業が行われ、パリは『麗都』と呼ばれるまでに変貌する。日本人とパリとの初めての出会いは1862年徳川幕府の竹内使節団であるが、この時には第一期の改造事業が終了していた。

    • 日本人とフランスとの関係
       1870年、フランスは普仏戦争に敗れ第二帝政が終了する。以後、明治政府はその範をプロシアとイギリスに求めることになる。ここで日本とフランスの関係は一時切れてしまうが、明治の第二世代である黒田清輝永井荷風等により、パリは芸術・文化の面で新たに見直されることになる。その頂点が1900年のパリ万国博覧会であったと考えられる。

    • 1900年のパリ万博は日本人にとって何であったのか
       日本の美術品が工芸品としてしか扱われなかったことへの不満から、1900年のパリ万国博覧会に向けて『稿本日本帝国美術略史』が編纂され、1900年にはフランス語版が刊行された。パリ万国博覧会では、日本は純粋美術の分野で自国の区画を確保し多数出品したものの、準備の割には振るわないという結果に終わった。特に西洋画はそうであり、1900年のパリ万博は浅井忠等の洋画家にとってひとつの転機となる。by 今橋映子 東京大学大学院総合文化研究科助教授  ってのもあるし、

    •  

画像
で、このころになれば日本郵船(岩崎家)もあるしね。木箱に入れて運べばえ~のよ。

その後の天皇の料理番をやっていた我が身内の歴史でもあるって落ちです。

 

授業はこうやれ 歴史総合 やれやれだわ 

時間的に余裕があれば

「教員のかわりに生徒たちが授業を行いました=生徒による授業」ってぐらい言いたいんですが、、、勤務校ではそれも無理。学年を3人で持ってることもあって、教科書通り進むとは限らないので、なんてのも無理。

基本はPairでworkshareします。
通常授業(8~12時間くらい)の後で
単元を貫くテーマ(問い)を設定し、
その学習が終わったら、
Group Work で討議・発表します。なんても想定外です。

なぜかわからんが生徒は「忙しい」という。まあ、サッカー部の連中は練習に明け暮れてるから納得だが、それ以外の生徒?まあ、いろんな課題や小テストとか各教科が好きなように課してるからね。誰かが統括するってのもないから、、、で、さらに昨今の観点別評価には提出物も加味するって、、、ティームス経由で提出しエクセルにしてまとめる。

まあ、この作業は同僚が考査ごとに出してくれるのだが、、、、更にT社の教科書準拠版の「歴史総合ノート」も購入させてんのと、教科書準拠で【括弧】穴埋めプリントも各章・単元ごとに配布。こちらも同僚が作ってくれるので、毎時の授業で配布しなければならない。学年全体で差がつかないように?って配慮ですわ。

 

僕的にはその流れよりも、

まず自宅や通学途中で動画や僕のブログ(ティームス経由でリンクを配布)をみて、

授業中寝ないで俺の授業に付き合ってくれて(ある程度ノートも取って=note taking with Talk and Chalk)、

それからプリントやるなり「なんちゃらノート」やるなり、

ティームスの経由の宿題的な課題?入力すればいいのに(てかこれだけやれば定着するんだが=‘って高得点者の証言あり)、、、

少なからずの生徒はその提出に追われる。

基本的にそんな授業(中学でやってきた暗記学習)で何とか入学してきた生徒にとって、授業を楽しむってのは「悪」のようで、授業=苦行・修行ってのが「良い」授業みたいで、、、まあ、別段それなりの点数がとれるならノートなんてどうでもいいと思う僕のスタンスからすると、「君たちMかね」って思ふ。いや、超弩級のS教員も少なくないからね~

で、心ある生徒は早くから気づいてんだけど、依然として授業中にさっきの課題だけちゃっちゃと記入しようとする。まあ、反語の意味を込めて「赤ペンで記入しろよ」って言ってるけど、、、意味あんのか? やった感だけはあるけど定着しないぜ。

まあ、他の授業もそんな感じだから、、、でも気が付いた生徒にとってはこんなにおもろ~な授業は無いって発言(まあ多少贔屓目に見る必要があるけど、この感想は国分寺高校時代からは変わらない。まあ、学力に合わせて配布プリントの文字数や難易度はつけているけど。配布する頻度や情報量も変えたり、昨今はデジタル化なのと印刷機の関係で僕のプリントは減ってますけど=板書も減ったわ。というか、黒板の右3分の1はICTプロジェクターのスクリーンが占拠する状態。昔は黒板全面で書いてたけど、、、

予備校講師の(ユッキー佐藤君=学芸大学の同窓では最大の稼ぎ頭だろう=だって代ゼミの人気講師だったし)とかどうすんだ? マシンガントークもできないよ!

 とわいえ、こうやれってんでまとめたのが以下の動画。戦間期の話です。某サイト(以下)の授業とほぼかぶってます。

1.パリ講和会議  2.国際連盟  3.ワシントン会議  4.大戦景気と米騒動  5.西アジア・南アジアの民族運動  6.東アジアの民族運動  7.第一次世界大戦後のドイツとイタリア  8.ロシア革命とシベリア出兵

いやさらに、、、WW2に入る前までのところ=暗黒の木曜日からナチとFDRまでのところです。

VW体制からVWへ 

https://video.wixstatic.com/video/d3aa22_4cced6028dac45b4a3af22667a9a4ce7/1080p/mp4/file.mp4

 

授業でやりたいけど、時間がないので各自で見てください。

44 ナチス台頭 VW計画 独裁も選挙から 

君もポルシェが欲しいか?BMWか? レクサスはお高い=でもトヨタだよ

日中 いくさ1932に6向かう  515

第一次世界大戦後ドイツと連合国の間で結ばれた講和条約。眼目は、ドイツ国軍主義復活の防止と、国際平和体制の復活にあった。 ドイツは領土を割譲し、全植民地を失い、軍備を制限され、莫大な賠償を課せられた。 その苛酷な条件は、かえってドイツ国民の反感を激発。 ナチスの台頭に好地盤を与える事になった。 条約はまた 史上初の平和維持機構として、国際連盟を成立させたが、初めのうち、米ソの二大国が参加せず、後に中軸諸国が脱退し実質上制裁力を欠き、第二次世界大戦の勃発を防げなかった。1989年に始まった東欧変革が、実はヴェルサイユ条約後の独立国を舞台にした事から、20世紀の国際政治にあたえた遺産の大きさが再認識されている。VWへの道

ナチス」とは - 政党 ナチ党、国家社会主義*1ドイツ労働者党(NSDAP:Nationalsozialistisch…

vw ナチス.mp4

以前はこんなプリントも配布してたけど。

こんな英文読んでもらったり、いや数字だけで十分なんだが。Perhaps best known throughout the world for its superior engineering and open stretches without a speed limit, the Autobahn was Hitler's invention from his dreams about an interstate highway system. Over 2000 km were built by 1938 and today approximately 11.000 km cover Germany. True to stereotypes about German engineering and maintenance, road designs are solid without a single pothole, with 4% or lesser grades, long acceleration and deceleration lanes, gentle curves, and free-resistant surfaces. Just as Hitler insisted on having buildings and other infrastructure that would last 1000 years, the engineers of the Autobahn design things right the first time and perform critical inspection and thorough maintenance to keep the best highway system in the world at peak operational performance. Copyright © 1999-2002 - Hitler Historical Museum - All Rights Reserved

https://fujinosekaic.hatenablog.com/entry/20220216/1644969469

fujinosekaic.hatenablog.com

VW体制でNYCからVW計画へ じゃアメリカは? 怒りの葡萄でFDR

てのの授業記録

youtu.be

https://www.youtube.com/watch?v=CyZdEyiKVeI

1929ー39

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

授業はこうやれ 番外編 人物史2024-25

 総合学科単位制高校に勤務する運命として、いわゆる普通の教科以外で「学校設定科目」ってのを持たされる。もちろん、国分寺高校でも「総合的な学習の時間」とか国際高校だと「課題研究」とかもあったけど、いわゆる「世界史」以外の授業で、「指導要領」外で、教科書もなく「担当者の創意工夫でやれ」って投げられる科目がある。

*国際高校だと「社会生活:社会的少数者に視点を当てて=犯罪被害者、在日朝鮮・韓国人、LGBT:当時はまだこの単語すら一般的でなく、さらに彼らを学校にゲストに呼んで3人一組ぐらいでインタビューするという企画を実施。

*杉並総合高校では「国際ボランティア」ってので外部のNPOと共同授業(僕以前は市民講師=T.T.とは名ばかりで講師に丸投げだったんだが、それじゃ面白くネ~ってんで僕自身も連携して授業を展開したらこれが瓢箪から駒が出る=トビタテが続出し、国際企画に参加する結果になった=積算額数千万円分)。

*上水高校でも、「伝統芸能」でお琴やPCでイラスト=「漫画作成」みたいな授業を週2時間担当させられてきたわけです。もちろん、「世界史教師」としては世界史の授業をやってたほうがはるかに楽なんですが(多分進学校だとこれだけ:今までのところはね>>今後は知らん)、、、、 

 現在の勤務校のサッカー部付属の東久留米総合高校では「人物史」ってのを担当してきました。2・3年生の選択の1・2時間目の授業です。3年生3名と2年生8名でスタートしましたが、途中で転校した2名の2年生もあり、さらに3学期は3年生は「自宅学習」もあり、2年生5名と「楽しい学び」になっておる。で、この授業は正月明けの上に翌日から広島・大阪への修学旅行(なぜに広島・大阪?この時期?など修学旅行の疑問・愚問は別板で)を控え、何する?って段階での授業です。

① 広島に関連する人物を調べ(1限目) 

② それを黒板で発表:キーワードを記入し、5分程度で発表

をしました。一人はMC:司会進行で4人で実施した時のものが以下の写真です。

これを次回は加筆・修正のイラストや地図、資料と合わせて広島に関連ある(出身)音楽を併せてPPX=パワポを作成してもらう予定。どんなものになるやら。

ちなみに、「広島といえば」で最初に出てきたのが岸田文雄カープ女子。音楽関連だと奥田民生ポルノグラフィティと矢沢だ。ちょっと古いが吉田拓郎ってのもいたね。

 

2025 帰国後初日の世界史探求の2 Thank you 探究

ちょうど時事的にトランプがアメリカ湾なんて言ってるのもあって、更にサンタアナの風がビバリーヒルズに迫ってるのもあって(地政学とか立地を考えて欲しいのよね)あのマテオ・リッチの地図から始めてみたけど、次に注目したのが時代はさかのぼって宋代のこれです。「混一疆理歴代国都之図」@ 龍谷大学 現物を見たいね!!

noteの相互リンクで 

2025 帰国後初日の世界史探求の旅2|63 Ace

资料来源:http://www.afc.ryukoku.ac.jp/kicho/cont_13/pages/1390/1390_L.html?l=1,1&b=1&p=1&c=31&q=

朝鮮において1402年に作製されたとするならば、現存する最古の世界地図の一つ?であり、作成以来600年以上を経た現在に至るまで、貴重資料であることに注目されているからY社編集部は掲載を決めたんだろう。

濱下武志 https://www.sohu.com/a/169735326_556522では

 

同図の原版は、鮮やかな彩色であり、海の色が緑であることが目を引く。イスラムの影響の下に緑色が使われている。次に、モンゴル帝国の広がりを反映して、東西に貫く広大な地域があり、下半分には海域の広がりがある。そして右方に大きな朝鮮半島が登場し、その真南の海上に日本が90度東に回転し描かれた混一図(複合図)である。また、混一図という内容は、同図がある年代の世界を平面的に切り取って描かれた「地図」ではなく、「歴代国都」と題されているように、時代の上限は唐代のシルクロードに関連する地名を含み、下限は15世紀の後半までを含む年代に関連する地名を同一平面に重ね書きしているいわば平面地図という形を取った「歴史図」「年代記」という書物でもあるということである。

で、この地図も生徒に読み取ってもらった。赤丸と青丸(緑丸?)に注目した生徒が!凄いじゃん。この都市に注目するのは良き良き。さらにこのブログの指摘するように、

朝鮮半島が詳しいってのにも言及してきた。済州島(あのチェジュです7c2216便の本拠地&あの仁川港発のセウォル号沈没事故の目的地=多くの高校生と沈んだフェリーが、、、)もはっきり描かれているし。当然漢城も赤丸で発見できます。undefined

「混一疆理歴代国都之図」は、これまで、ヨーロッパが中心となって世界を作り上げてきたという見方に対して、すなわち16世紀以降のポルトガル・スペインの大航海に始まるとされる世界規模の動きより早く、すでにそれ以前に朝鮮から、唐代に始まりモンゴル帝国時代を中心としたユーラシア大陸や海域の交易や人の往来の情報からすでに東からの世界視野が描かれていたことを根拠づける史料である。by 濱下武志

ただ教科書の説明だとアフリカまで出ているってのがあるんだけど、、、、この地図の解像度だけと僕は分らんので、以下にブログの続きを貼っておきます。でも要はアジアからの視点(それも朝鮮半島)から見た世界観で、夕日に向かってという視点だからモンゴルと同じなんだわね。でも日本がよく分らん。この情報元は中国のサイト(筆者は中山大学アジア太平洋研究所の教授?)からであり、興味深く読んだ。でも長いよ!まあ僕も最終学歴は理学部地理学科なんで、空間認識とデータにはこだわってみたいけど、要旨だけでも長いわ。で、寧ろ先に授業で生徒と話したことを先に書く。    ①日本はどこ? ②細かすぎてよくわからん?③1400年代のアジアって?

って探すとこんなのが出てきた。日本本光寺藏「混一疆理歷代國都之圖」

遊牧民族自身的歷史記憶是如何進行的? - 每日頭條 現物見たい!!

https://kknews.cc/zh-tw/history/j8qn2ep.html

摘要:地图作为一种载体,所展现的不只是当时的自然地理空间,更是时人的空间概念与世界观。尤其是在没有测量的传统时代,地图较多采用道教、佛教、伊斯兰教、基督教等宗教的概念和世界观进行描绘。研究古地图就不只是辨明其标识的自然地理的正误,更应该深入窥视其中的空间观念与世界观。1402年在朝鲜制作的《混一疆理历代国都之图》是现存最古老的世界地图之一。此后流传下来的版本颇为繁多。本文重点研究的龙谷大学藏《混一疆理历代国都之图》即是较为重要的版本之一。相关的研究成果也极为丰硕,但主要还是从自然地理或者说地理学、测绘学的角度进行探讨。著者虽然对地图绘制和制画学甚有兴趣,但无意由此进入,而是尝试从世界观、空间描绘、历史环境和历史背景的角度,或者说集中从海洋的角度来解读龙谷大学藏《混一疆理历代国都之图》的历史特色。

经过龙谷大学“古典籍数位典藏”项目高度复原后,《混一疆理历代国都之图》实物的地图颜色、绢布织法、绢布上的色素及颜料等都一一再现,从而成为新的历史研究资料。这极大地推动《混一疆理历代国都之图》的研究焦点转向其所体现的时代风貌和文化动态上。文章首先考察了龙谷大学所藏《混一疆理历代国都之图》的时代背景及制作年代等,并通过对该图姊妹图的分析,以及“郑和下西洋”和“琉球”之间的关联,观察同时代亚洲的海域面貌。

经过研究,本文认为该图有别于传统的以欧洲为中心的世界观,是从东方的世界视野制作而成的“历史图”、“年代记”。作为重要史料,该图有力地证明了在16世纪葡萄牙、西班牙大航海这一世界性规模活动之前,东方已从世界视野描绘了从朝鲜出发,始自唐代、以蒙古帝国时代为中心的欧亚大陆和海域的商贸交流与人员往来的概貌。同时,本文与以往关注该图“陆地”的研究不同,注意到该图展现出东方世界积极开展海洋活动的动机和时代特征。制作《混一疆理历代国都之图》的时代刚好与郑和下西洋的时间重叠,也与关注海洋贸易、海洋活动的明帝国由东往西形成的时间一致。随着海洋活动的展开,穆斯林商人网络和琉球商人网络逐渐成型,琉球海上贸易越发兴盛。这些贸易网络是朝贡贸易得以成立的重要基础和背景。而经由朝贡贸易形成的海洋贸易网络反过来又进一步促进和巩固了朝贡秩序。

关键词:《混一疆理历代国都之图》;龙谷大学;海洋贸易;郑和下西洋;琉球;朝贡

作者系中山大学亚太研究院教授返回搜狐,查看更多 以下凄く長いけど勉強になるから発展置きます

平台声明:该文观点仅代表作者本人,搜狐号系信息发布平台,搜狐仅提供信息存储空间服务。以下はG翻訳ね。

概要:キャリアとして、地図は当時の自然の地理的空間だけでなく、当時の人々の空間概念と世界観も示しています。 特に測量がなかった伝統的な時代には、道教、仏教、イスラム教、キリスト教などの宗教の概念や世界観を用いて地図が描かれることが多かった。 古代の地図の研究は、それらによってマークされた自然地理学の正しさと誤りを特定するだけでなく、それらの空間概念と世界観を深く覗き見ることでもあります。 1402年に朝鮮で制作された「混交地域の首都地図」は、現存する世界最古の地図の一つです。 それ以来、多くのバージョンがあります。 その中でも重要なのが、本稿の焦点である龍谷大学所蔵の「Map of the National Capital of the Past Dynasties」である。 関連する研究成果も非常に実り多いものですが、それらは主に自然地理学、地理学、および測量学の観点から議論されています。 筆者は地図製作や地図製作に非常に興味を持っていますが、そこに立ち入るつもりはなく、龍谷大学の「歴代王朝の首都地図」の歴史的特徴を、世界観、空間描写、歴史的環境、歴史的背景の視点から、あるいは海の視点から解釈しようと試みています。

龍谷大学の「古典書デジタルコレクション」の高度に修復されたプロジェクトを経て、地図の色彩、絹布の織り方、絹布に付着した顔料や顔料が一つ一つ再現され、新たな歴史研究資料となりました。 これにより、「Map of the National Capitals of the Past Dynasties」の研究の焦点は、それが具現化する時代のスタイルと文化的ダイナミクスに大きく貢献しました。 本稿では、まず龍谷大学所蔵の混境首都地図の歴史的背景と制作年代を考察するとともに、姉妹地図の分析を通じて同時代のアジアの海洋景観を観察するとともに、「鄭和の西方航海」と「琉球」の関係について考察する。

本稿では、研究の結果、この地図が伝統的なヨーロッパ中心主義の世界観とは異なるものであり、東洋世界の視点から作られた「古地図」であり「年表」であると主張しています。 この地図は、重要な史料として、16世紀のポルトガル・スペイン大航海以前に、モンゴル帝国を中心とする朝鮮から唐にかけてのユーラシアと海域との通商・貿易交流や人的交流を東洋が描いていたことを示す強力な証拠です。 同時に、本論文は地図の「陸地」に着目した先行研究とは異なり、東洋世界が海洋活動を積極的に行っていた時代の動機や特徴を地図が示している点を指摘しています。 過去の王朝の首都の地図の作成の時代は、鄭和が西に行った時期と一致し、東から西への海上貿易と海上活動に焦点を当てた明帝国の形成とも一致しました。 海事活動の発展に伴い、ムスリム商人のネットワークや琉球の商人のネットワークが徐々に形成され、琉球海上貿易が盛んになりました。 これらの貿易ネットワークは、朝貢貿易の確立のための重要な基盤と背景でした。 朝貢貿易を通じて形成された海上貿易ネットワークは、今度は朝貢秩序をさらに促進し、強化しました。

このような「年代記」としての性格を持った世界図でありながら、「混一疆理歴代国都之図」に関する研究は、これまで多くは「世界地図」として地理学の方法に基づく地図分析が地名と地形(水系)の比定として行われ、歴史的な分析は必ずしも十分に行われてこなかったということができる。本稿では、この歴史年代記としての性格を持つ「混一疆理歴代国都之図」に関して、歴史研究の資料として、とりわけ海域図としての特徴を検討することを試みたい。内容構成としては、まず、これまでの研究史の主要な論点を振り返り、これまでは陸地として見えていた同図は、そこに積極的な海洋活動への強い動機を見ることができることを指摘し、その点を、ほぼ同時期に連続して作成され、内容に関して継起的に補綴がなされている姉妹図に注目することによって、「鄭和征西」と「琉球」との関連において同時代のアジアの海域像が大きく登場する状況を考えてみたい。ただし本稿では、補綴し書き加えた朝鮮半島部分と形が修正されていく日本部分が、同図の歴史的理解に対して重要な手がかりとなることは既に多くの既往の研究において指摘されてきたところではあるが、本稿ではほとんど取り上げていない。さらには、本体である元代中国の沿海部分は海域の理解に不可欠ではあるが、ごく一部に触れたのみである。イスラームの視野に関しても引き続き多くの検討が必要であり、今後の継続的な検討課題としたい。

以下はこのような歴史的な課題に注目するようになった契機は、勿論これまでの多くの先行研究に成果によるところが大であるが、龍谷大学理工学部岡田至弘教授を中心とする「古典籍デジタルアーカイブ」プロジェクトによってデジタル工学に基づく同図の復元がなされ、しかもその復元は色素や繊維素材に関する分析なども可能とする方法に基づいていたことが直接的な契機となっている。デジタル高画素分析により現物を傷めることなく表記内容が鮮明化され、原典の表記のままに解読が可能となり、さらに現物地図の色彩や、材料の絹布の撚りや絹布上の色素・顔料などの素材を分析することが可能となり、かつ作製時代の原型が忠実にデジタル復元されたことにより、新たな歴史研究資料として検討することが可能となった。

この成果により、これまで図上に表記された地名解読を中心に行われてきた同図の研究は新たな段階に入ることとなった。すなわち地名の解読を通してそれを歴史的に比定するという地理学の手法を中心として行われてきた研究は、同図の構想をはじめとする時代的背景を明らかにしつつ、同図が持つ時代的な特徴とその文化動態資料としての役割を明らかにするという課題が登場したのであり、総じて同図の時代像をあきらかにする課題に正面から取り組むことが可能となったと考えられる。

混一疆理歴代国都之図』研究をめぐる諸課題

(一)1402年の時代的位置

1402年製と朝鮮王朝建国の功臣権近により跋文に明記された龍谷大学『混一疆理歴代国都之図』は、これまでその記載地名や地形から判定して、それより後の作成であることが検討されてきた。この点は後にも触れることにするが、跋文にある1402年製の同図は未詳のまま、同年に作成されたはずであるとされてきたのみである。そこでは、眼前の「地図」に注目するあまりに、例えば、1402年になぜ最初に作成されたのか、1402年と具体的に記した作成の目的はどこにあったのか。あるいは、1402年と龍谷図作成年代との年代的な差は何を意味するか、などの課題は未検討のままであった。以下にまず同図の時代的な位置を概観してみたい。

1392李成桂高麗王に即位し1393年から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王)に封ぜられた。明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年である。1402年と明記された「混一疆理歴代国都之図」の作製は、この動きと無関係ではないと考えられる。すなわち、明の勢威を謳い、その下での朝鮮国の位置と役割の重要性を象徴するものとしての世界図の作成という事業の遂行である。

この時期にあって、明朝から海洋に関わった大事業は「鄭和の征西」であり、朝鮮からの海洋視野に密接に関連していると考えられる対象が日本・琉球に関する調査事業であった。ただし、同時代の琉球の位置は、それを朝鮮から見るか、中国から見るか、また日本から見るかという海洋視野の違いによって表現が異なっているという特徴を持っている。

他方、琉球は1372年からすでに明に朝貢使節を乗せた進貢船を送っており、名目を異にして毎年また一年間に複数回の進貢船を送っており、他にも朝鮮をはじめとする東アジアに、また朝貢品の胡椒や蘇木を特産する東南アジアへも交易使節を送っている。後述するように、14世紀末葉に始まる琉球の南海貿易において、1420~30年代はその最盛期に当たっていた。

また、日本では1404年に足利義満は初めて「日本国王」の肩書を用い、同年明皇帝から「日本国王」に冊封されている。混一図は、「朝鮮」「日本」「琉球」「交趾」などの明朝への朝貢国の名前が見られるが、朝貢国の「安南國」は海上に置かれており、さらにアユタヤ国(シャム)の成立とも対応している。アユタヤ(シャム)を表す漢字表記の「暹羅」という表現は地図上には見えていないが、タイ族をあらわす「暹」という字を持つ表現は既に見えている。全体としては混一図には、明初の朝貢冊封関係の理念と現実が表わされているといえる。

また、「歴代国都」という国都の歴史的に変遷する地名も同一平面に書き込まれており、明朝の盛世が、中華の長い歴史を受け継ぐものとしてその頂点に位置することを示そうとしており、明初の勢いを示すと共に、それを歴史的に正当化する意図も込められていると言えよう。これらは、現ユーラシア大陸が混一図上に東西一杯に広がっていることに見られるように、いわば世界に跨った王朝であることを示すかのように描かれていることも特徴的である。

併せて、混一図には海上に地理的な位置とは無関係に朝貢国の国名が並べられている点が特徴的である。海上の記載は、島、朝貢国(楕円形の中)、地方名、その他が併記されており、セルデン図にみるような航路が書き込まれたりする海洋固有の実質的な表記、島嶼固有の形態表記には至ってはいないが、朝貢の運用が海洋の概念と重なっていることに注目したい。

(二)イスラーム地図学の影響

これまでの研究成果において明らかにされているように、世界地図としてみた『混一疆理歴代国都之図』は、その範囲がヨーロッパ・アフリカまでを含んでおり、これはモンゴル時代のイル汗国がアフリカ・ヨーロッパと接する中東地域を支配しており、イスラーム地理学に基づく地図作成の成果を取り込んでいたことによる。そこでは、中東イスラームからアフリカ地域さらにヨーロッパにまで広がるモンゴル帝国時代の世界視野がイスラーム史の成果の中で検討されてきたといえよう。

その過程で混一図は、地理学の方法に基づき、地図研究の対象として主に検討されてきたといえる。地名の比定を中心として、世界地図としての姿を甦らせることに主眼が置かれ、その世界地図としての作成時期の早さ(古さ)に注目し、さまざまなレベルに亘る(非)正確さが論ぜられてきた。

(三)世界地図か世界像か

世界地図として、地理学的な成果であると同時に、同時代の中国の、また朝鮮の世界観を示す世界図としての特徴はどのようなものであるか、という視点からの研究も進められた。すなわち、混一図に世界図や総図としての世界像や世界観の表出を見る必要があるという視点である。

他方、世界地図・世界図を含み、さらに広がりを持つものとして宇宙図としての混一図を見るという視点も存在する。しかし、混一図には星座の書き込みが見当たらず、同図が宇宙図を含んでいるとは言えないが、その後の朝鮮図のなかには星座が描かれているものもあることから、混一図をめぐり世界地図・世界図・宇宙図の3種類の広がりを持つという歴史的な展開の方向性が考えられる。

測量に基づかない時代の地図作成は、地理図としてではなく世界図として作者の世界像示される。「混一疆理歴代国都之図」は、これまでは「世界地理図」とのみみなされてきたが、むしろ同時代人の世界観・天下観が地理空間の上に表現されたと見ることができる。コロンビア大学ガリ・レドヤードGari Ledyard教授は、朝鮮史に現れる「混一疆理歴代国都之図」と「天下図」との間には、内陸大陸部が西域を西端とする「天下図」へと凝縮していくと見ている。この考え方は、中国を中心とする東アジア地域の自他認識や世界認識の中華化・華夷化を示すものであり、地域的特色を持った歴史文化図であるということができよう。

(四)成立年代の考証

成立年代についての検討が加えられてきた。そこでは、地図の作成にかかわり、原本としての同図の作成年についていくつかの疑問も投げかけられてきた。混一図の権近の跋文によると、同図は、1402年(建文四年)という製作年が特定された世界図である。この記載が同一地図上に明記されていることから、これまでこの1402年が記載地名などの内容と符合しないという点に関心が集中した。そして、作成が朝鮮においておこなわれたことから、とりわけ詳細かつ具体的な朝鮮の記載地名から判断して、少なくとも成宗年(1472)以降の写本であるとされ

朝鮮半島の地名から比定される時期は、約半世紀を経た後であり、かつある時間帯を経過して記入されている(ケネス・ロビンソン論文では、1479~1485年の間と比定している)。このことは、朝鮮と明朝との何らかの交渉問題の発生と交渉経緯を予測させる。

他方、混一図の主題が「歴代国都」に関する記述であり、時代を異にする地名が書き込まれていることから、地図表面の記載地名の時間幅には6~7世紀からモンゴル時代までの長さがあることがわかる。したがって、地図に記載された地名は、地図の地名情報がそれ以前には遡らないという上限ではあるが、記載地名そのものは地図が描かれた時期の下限を示すものではないということでもある。

したがってこれらの事情から言えることは、跋文以外に作成年代の記載は確認できないということである。しかし、この時間の範囲の中で、中村論文や村岡論文が明らかにするように、記載された地名からではなく、歴史上特定の期間のみに存在した行政機関が書き込まれていることから、極めて特定の時間の幅が確認できるという特徴も見ることができる。

これに対して、朝鮮半島に地名記載から、混一図が作成された年代を特定するという検討が行われ、ロビンソン論文は、各地に設立された行政・軍事機構の年代が特定できることから、混一図の作成年代を、跋文の1402年ではなく、1470年代末~80年代の間とした。また、楊普景論文は、地図に記載された山岳の名前を以って地図作成年代の確認を行っている。ここから、跋文の1402年に描かれた地図は、龍谷大学が所蔵する混一図とは別にあったはずであること、また、上記の朝鮮半島情報以外に、地図に記載されたいかなる情報から作成年代を特定できるのか、という新たな課題も出されたといえる。

(五)姉妹図の位置

興味深い混一図に関連する世界図として、本光寺蔵の混一図が作成され、天理大学蔵の混一図などが作成されていることである。さらに本妙寺の大明国図が加わり、合計4種に及ぶこれらの異なる版本ではあるが同一系統に属す混一図相互間の主要な違いは、海域に関する情報や記載の変化とりわけ、朝鮮、日本、ならびに琉球・台湾などの記載に関連して作成されているということも注目される。鄭和の征西に象徴される明朝の展海策にはじまり、急速に拡大する東アジア海域における琉球をはじめとする朝貢貿易活動が、このように連続して世界図を修正・作成することにつながったと考えられよう。

海洋から見た『混一疆理歴代国都之図

これまでは、『混一疆理歴代国都之図』の検討は、多くは陸地をめぐる研究であり議論であった。これに対して、海洋・海域に関してはどのような検討が可能であるか、という点は未知の課題であった。海洋を言う場合も、島や島名の比定が中心であり、方法的には陸の地名比定戸同様の方法が取られており、いわば、陸の延長上にある海洋研究であり、海洋が独立した対象として取り扱われることは無かった。しかし近年の海洋研究・海図研究の進展、さらにはグローバル・ヒストリーの視野からの研究の進展によって、『混一疆理歴代国都之図』の海域研究に取り組むことが可能となってきたと考えられ、本稿も同図の海域研究を中心的なテーマとして設定している。

(一)海洋図としての『混一疆理歴代国都之図』

『混一疆理歴代国都之図』は、地図部分とともに、上部と下部に帯状にそれぞれ、歴史的な「国都」の所在地を元代の行政区によって記した一覧表と、権近による混一図作成に関する具体的な縁起と作成年代が特定されて記述されているという作成に関する歴史が記述されている。また、龍谷大学蔵『混一疆理歴代国都之図』以外に、その姉妹図とも呼べる本光寺『混一疆理歴代国都之図』、本妙寺『大明国地図』、天理大學『大明国図』が相互に近接しつつ異なる記述を持っていることが明らかにされ、1402年作成の混一図及びそれが記された龍谷図への関心が高められてきた。

このような背景を持つ『混一疆理歴代国都之図』の特徴は原資料は現在確認されていないが、跋文にある李沢民『声教広被図』に基づく文字通りの広大な中華の名声を及ぼした世界の広がりが、イスラーム地図の影響に基づいていることにある。

同図の原版は、鮮やかな彩色であり、とりわけ海の色が緑であることに注目されるこれは、イスラ文化においては安全を表わす緑色であり、それが海の色として使われている。さらにモンゴル帝国の広がりを反映して、東西に貫く広大な地域があり、下半分には海域の広がりが描かれ、モンゴル帝国が海の帝国であったことも示されている

さらにこの交易網は、以下の引用文に示されているように、シャムによっても中継される南アジアとアジアを結ぶベンガル湾貿易につながっていた。

(アユタヤ)国王の投資によって、コロマンデル諸国からもたらされる主たる輸入品には、各種のインド産の織物がある。アユタヤからの主要輸出品は象であった……インド産の織物は、テナセリム経由でアユタヤにもたらされたが、テナセリム(あるいはメルギ)・アユタヤ間の要衝を管掌する役人に、いずれもイスラーム教徒が任命されていたことは、南シナ海貿易の直接担当者がすべて中国人であったこととともに、アユタヤ王のきわめて実践的な思考様式を反映している。

シャムの沿海図によると、東航では、朝鮮半島を最東端に、交易路に沿うように日本・琉球・台湾・広州と続いている。

また、考古発掘資料であるが、九州の北、玄界灘鷹島沖で発掘された元寇時の船のものとされる木製の碇(いかり)の形状と、装着された花崗岩泉州連江県定海湾出土のものと一致するという検討結果である。同じく出土した陶磁器類を確認すると12~13世紀の宋元時代の貿易船で使用されたものと確認される。このことは、蒙古軍船がイスラーム貿易船を使用していたことを示唆するものであり、南回りの海洋交易を元軍が利用するところとなっていたことを示す資料であると見なすことができよう

ケネス・ロビンソン教授の研究によるならば、龍谷図は(本光寺図とともに)朝鮮半島の地名情報が多く、なかでも、南部の水軍万戸が駐在する浦営を北部の兵馬万戸が駐在する鎮堡より詳しく表記していること、特に海賊が出撃してくる對馬、一岐、松浦地方に近い慶尚道にあった19の水軍浦営のうち17箇所を記入している。半島南部の周辺海域は南部穀倉地帯の税量を北部へ運送する要路でもあった。また、馬の飼育地が記入されていることも特徴とされる。総じて、郡県制形成以前の1402年時期には存在し得なかった行政地名が混一図には記入されている。この特徴を海洋史の観点から見るならば、海辺の輸送の重要性の増大に伴い、海辺警備が強化されていることが示されている。

モンゴル時代末期に登場した琉球王国は、明清中国と朝貢貿易をおこなった。また同時期に朝鮮王朝は、朝貢品として胡椒を求められていたが、遠く東南アジアに赴いて胡椒を入手することは困難であった。その後、琉球が胡椒や蘇木(赤色の染料)を中国への朝貢品として送り続けることになる。琉球は明代には、暹羅(シャム)・三仏斉(パレンバン)・爪哇(ジャワ)・満剌加(マラッカ)・蘇門答剌(スマトラ)・安南(アンナン)・仏太泥(パタニ)などの東南アジアの各地と交易をおこなっていた。さらにこれに日本・朝鮮・中国が加わり、琉球海上交易ネットワークを形作っていた。

(二)海域図の特徴

混一図に見る海域部分の表記の特徴として以下の諸点を指摘することが出来る。

1朝貢国は、一応記入されているが、特定の地図と言うより、遠方の海域に位置づけられている場合がある。この事例として、三仏斉(シュリーヴィジャヤ、日本の西南海上)、安南国(交趾の東南海上などがある。

2)円形を以って島名のみを示す場合がある。

3)円形ではなく、ある形を持つ地形として表現される島と島名がある。

4)単独の島名としてではなく、近隣の島との非地理的関係性をうかがわせる表現が見られる。この例としては、日本の位置の西南近隣に渤海が示されていることなどである。地理的には渤海東北アジアに位置したが、日本との関係が強かったということを地図上で示唆した表現であろう

5)波形は、申叔舟『海東諸国記』(1471年)に描かれた波形を踏襲しているように見受けられる。この点については、同図が1402年の作成ではなく、1472年以降の写本であるとするならば、年代的には整合することになる。ただ、李沢民『声教広被図』の原本が不明である以上、この点は最終的に確認することは困難である。

6)海域部分の色彩は、色素分析により緑であることが確認される。この点はイスラム地図の影響を受けたとされる李沢民『声教広被図』もおそらく同じであったことが推定されるが、情報の継承関係は確認できない。

7アラビア語発音の漢訳には以下の例がある。桑骨八(ザンジバル)、哈納亦思津(アラビア語の赤道Hatt al-istiua)など、アラビア語の音訳に基づくと思われる漢字表記がある。イスラームの地図表記に基づいてそれをそのまま当てはめようとしたものと考えられる。

8)さらに、アフリカ大陸部の東側海域には、丸い枠取りをしたまま、地名を書き込んでいないものが散見される。これも、参照したイスラム地図には、おそらくアラビア語表記の地名が書かれていたものと考えることが出来よう。

(三)海域島名の歴史的根拠

地名(島名)の資料的な根拠についてみると、これまでの研究によって指摘されているところは、以下の史料を挙げることができる。

赤土国、丹丹国、于陀利、哥羅、辺斗、大漢、婆利杜佑『通典』

馬鞍『元史』巻143

東董山、西董山『元史』巻162

石塘『島夷志略』

犀角(山)、代瑁(山)、馬鞍(山)、石塘、石帆、苧麻(山)、東董、西董鄭和航海図』

このように、『元史』や『島夷志略』など元代に獲得された海域地名・島名の知識ならびに、明初、鄭和征西によって新たに獲得された地名が記入されていることは、混一図が、陸地図部分の地名唐代の杜佑『通典』に見える地名を含み、さらに元代の南海遠征により、さらには1405年から1430年代にかけておこなわれた鄭和征西からの地名を収集していることも意味していると見ることが出来る。

鄭和の大航海と海域世界

(一)鄭和の征西(西洋下り)と海洋図

混一図には海洋が大きく描かれており、陸域と同様に海域も東西に貫いていることが特徴的である。このことは、混一図が作成される時代的な契機を示唆している。すなわち1405年から30年間以上にわたっておこなわれた7回に及ぶ鄭和の西洋下りなど、倭寇の終息に伴う交渉と交易の時代が期待された状況を示していよう。

1405年から30余年間に7回の西方への遠洋航海をおこなった明初の鄭和の大航海は、歴史的には例外的にポルトガル・スペインの大航海に匹敵する事業であると注目されながらも、これまでは伝説と歴史が入り混じって語られることが多かった。この鄭和の征西(西洋下り)が、2005年の鄭和征西600年を記念する多くの行事であらためて強調されることになった理由は、おりしも中国が改革開放の頂点にあって、グローバリゼーションを地でいくかのような鄭和の歴史的な大事業をそれに重ね合わせ、鄭和を記念する行事を鄭和の航路を辿りながら世界各地で行うことになったからであると考えられる。このことによって、歴史的鄭和は、いっそう現代的な課題としてまた同時に改めて歴史的な課題として問われるようになってきた。当時のコスモロジーのなかで、天下観や世界観、地誌、航海史としてどのような記録が残され、それらは同時代的な視点からまた現代的な視点から、どのように再検証ができるかということである。

(二)鄭和とは(ムスリムとしての出自、捕虜から艦隊司令官へ)

鄭和は1371年(明洪武四年)雲南省普寧県昆陽に、代々のイスラーム教の家系でハッジの称号を持つ、父親ミリジンの第2子として生まれた。本名は馬三保である。また三保は宦官を指すとも言われる。父親は1382年に元朝梁王の統治下で、雲南行省参知政事に任ぜられ、馬姓を名乗った。明が雲南を回復しようとして派兵し、多くの回族は梁王にしたがって抗戦したが敗北し、馬和は回族の子供として捕虜となり、12歳で軍に編入され南京に至る。その後朱元璋の第4子燕王朱棣の付き人として北京に移動した。靖難の役で馬和は燕王軍のために戦功を挙げ、燕王が永楽帝として即位すると、1404年に鄭姓を授与され、内官太監という宦官の長官に任命された。

この経緯を見ると、元末から明初にかけた政権交代期の政治変動の中で鄭和の位置が形作られたことがわかる。まず、鄭和の大航海という事業から見ると、雲南ムスリム家系の一員であったことから、鄭和のメッカやアフリカ東海岸にまでいたる大航海を担当する人物として抜擢されたということは想像に難くない。

同時に、鄭和が宦官として、明朝初期の明朝の中央におり、明朝の威信を内外に示すという王朝初期の永楽帝の集権化政策にふさわしい人物であったということも大切な条件であり、その一つとして周辺海域の統治、周辺朝貢国の整備、明朝の対外関係とそのための関税制度や組織をつくるという意向も担っていたということである。この点で、宦官であったことは中央を表現し地方と対抗しうる重要な条件であり、それに基づいて中央の政策を直接に対外交易を管理する組織につなげることができたと考えられる。

永楽帝の死後、これらの内外集権政策は中断されるものの、鄭和は明朝初期の体制確立する一連の事業に不可欠の役割を果たしたということができよう。

1405~1433年にかけて7回のいわゆる鄭和の征西は、さまざまな交易や移民のネットワークを通して、既に6世紀の早くからそれに通暁した既知の世界としての海洋世界であった。西洋の大航海が、いわゆる未知の世界の開拓という使命で語られることに対して、鄭和の既知の海域世界は、相互に対応すべき礼接格式がわきまえられており、背景に広域アジア海洋交易の歴史的な蓄積を見て取ることができる。

家島彦一教授は、ペルシャ湾東岸のスィーラーフを拠点とするスィーラーフ商人は、8~10世紀において、インド洋海洋世界の基本構造であるアラビア海からインド洋を最初に統合する役割を果たしたと指摘し、環シナ海にまで跨った海洋交易のネットワークを示している。この交易ネットワークの広がりは、鄭和の航海の広がりと対応したものであるとみることも可能であり、とりわけ、ベンガル湾の沿岸航路は、鄭和の1417年から1419年にかけたアラブ・アフリカ諸地域への第5回目の西洋下りに対応している。また、ベンガル湾を横断する航路も既に確認されており、鄭和もこれを利用していることが分かる。

(三)鄭和の役割―明朝の冊封使節ならびに外交使節

鄭和の航海がどのような目的を持っていたかということは、必ずしも明確になっているわけではない。しかし、鄭和の航海を具体的に検討すると、日常的な関係や海域経営に対して、それを確認するために航海をおこなったと言えるであろう。強いて目的というならば、むしろ、既知のイスラーム海洋航路を利用しつつ、海域に対する影響力の拡大、すなわち対外関係の原則としての朝貢関係の設立・安定化とその範囲の拡大ということを目的として各地において冊封をおこなったと言えるであろう。毎回の訪問ルートと訪問先をみると、この海域経営と海洋統治の目的がはっきりしてくる。

改めて、鄭和の訪問における海洋経営・海洋統治の目的を見てみると、第1次(1405年5~1407年9月)、第2次(14083~)、第3次(1409~1411年6月)は、南沿海海域を重点的に訪問し、各地の王権に朝貢を求めるとともに、琉球『歴代宝案』に見られるように「宣撫使」を置くことによって監視と継続的な朝貢関係の維持を目的としている。1次、2次のあと、明朝への朝貢使節の増大が明らかとなり、また、1421年の第6次には第4次に同行した馬歓(『瀛崖勝覧』の著者)とともに、明朝に至った使節の帰国のための航海を組んでいる。

引き続き、第4次(1413~1415年7月)、第5次(1417~1419年7月)、第6次(1421~1422年)、第7次(1432~1435年、鄭和は帰途に没す)は、アラビア湾ペルシャ湾に重点を移して訪問していることが分かる。イスラム諸国では、使節の訪問と答礼という外交的訪問である。また同一地を短期間に繰り返し訪問しているところから見ても、相互に了解している関係であることが窺われる。

日本・琉球・東アジア海域をめぐる混一図の変化

(一) 日本・琉球をめぐる海洋地図とその変化

15世紀後半期になると、混一図は東アジア海域をめぐって急速に変化する。それらは、混一図とそれに基づく3種の同図姉妹図との違いに明確に表現されている。とりわけ、日本ならびに琉球に関する表記がより一層明確になるといえる。ここでは琉球をめぐる表記についてみてみるが、その前に日本に関する表記について簡単に触れておきたい。

同地図が示す基本的な特徴である合成部分は東アジアの海域であるが、そこには現在の北海道が含まれておらず、かつ日本が朝鮮半島の南に90度右旋回した位置におかれている点である。この部分は、行基図によるものと比定されている。行基図」は、奈良時代であった行基の作成によると伝えられる中世以前の日本図を指す。行基図は、いずれも諸国が丸みをおびた形で描かれており、それぞれの国の位置関係を示したものだと推察できるのであるが、行基式日本図ともいわれているこの行基は、混一図のなかでは、日本の周囲に「雁道」『羅刹国」「琉球」「高麗」などを配してされている。混一図が作成されるに当たり、海域の部分も切り取って作成されたということが言える。

つぎに、行基図では各国の特徴を表記するにあたって、各地の情報を地図の中に記載する場合と、地図の余白の部分に記載する版本に分けられるこのことは、余白に表記された版本の日本部分が、書物の天地を南北に置いた時に90度右旋回する形で印刷されており、この版本の説明文を取り除いたとき、日本の位置形態は右90度に旋回したものとなる。このことは、行基図を切り取って混一図が作成される過程を示しているのみならず、いかなる版本が使用されたのか、すなわち朝鮮に伝播していたのかという点を確認させる材料となると考えられる。さらに、行基図の採用が、日本周辺海域を含めて切り取られていることからも、製作者の海域部分への関心が窺われる。

また、行基図には、日本を囲いこむ巨大な龍体を表現し日本総図とも呼びうるものもあるが混一図が作成されるにあたってはこの行基図は採用されておらず、混一図の世界像は個別地域の世界図の複合ではなく、のちに見るように、単一の統合された世界像を示すために作成された背景的な動機を読み取ることができる。

(二) 琉球海上図の度重なる書き直し

混一図が作成されるにあたって、日本は行基図の周縁の海が含まれる形で切り取られていたのではあるが、混一図の作成における琉球は、大琉球・小琉球として、伝統的な中国から見た琉球と台湾が表記されている。混一図には、基本構成が極めて近接しているものの内容的には異なる版本が連続して登場していることは、混一図が作成される時代背景を考えるうえで重要である。とりわけ海洋・海域に対する視野の急展開が然らしめた結果であると考えられる。

これらの、海域をめぐる朝貢体制の再編と東北アジア地域における外交交渉問題の両者に対して、それらに対応する朝鮮王朝の姿勢と役割が表明されていることから、地図の上でも朝鮮半島に大きな注目が置かれており、世界を陸域と海域の2つに分け、ちょうど両者に跨り、その根元部分に描かれている。また日本・琉球に関しては、申叔舟『海東諸国記』が1471年に王命を奉じて撰進しているが、混一図では行基図という異なる側面から日本が記されている。ただ、1413年第1朝鮮通信使(不実行)、日本から朝鮮への使節の増加、日明勘合貿易琉球の東アジア・東南アジアでの貿易活動(1430年には、暹羅から琉球への使節派遣)、琉球と明との朝貢貿易など、15世紀前半は、アジアの海が活力を得た時代である。以下に度重なる琉球図の書き直しについて見てみよう。

 

 

 

 

2025 帰国後初日の世界史探求

今日の授業はまずはこれから=あまり難しいことから入ると生徒にも負担&喉にも負担

undefined

Y社の詳説にも掲載されている。でも小さくてあれじゃ意味ねーよ。無いより良いが。

で読み取れること&感想を記入させて、共有し、発表させる。で、そこにコメントしてくだけから始まって、本文も参考にする。でも、タブレットもあるんで生徒自身でも検索できるし。坤輿万国全図東北大学附属図書館狩野文庫の写本)

Y社の説明だと:1602年北京で刊行され、鎖国時の日本にも輸入されたり、仙台藩(伊達藩=末裔は誰?の写本という事である。宮城県図書館及び京都大学図書館に数部が保管されておりってwikiにもあるけど、魯迅はこの地図を見たのかなあ?

  さて、イタリア出身の宣教師マテオ・リッチが作成ってことから、彼にも言及。誰?ってことで、タブレットを敲く:マテオ・リッチ(イタリア語: Matteo Ricci、 1552年10月6日 - 1610年5月11日)は、イタリア人イエズス会カトリック教会の司祭。中国名は利瑪竇(拼音: Lì Mǎdòu り まとう)。フランシスコ・ザビエルの夢見た中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。ってことは教科書の本文にある。ほぼ同じだ!ってのに気が付く生徒。

 更に、イタリアのマチェラータ(当時はローマ教皇領に属した&息子が高校時代留学してた所の近くじゃん=ローマが弁慶の泣き所だとすると反対側のこむら返りする所)出身のリッチは、イエズス会に入会後インドでの宣教を志して1578年にゴアに派遣された。その後、マカオに滞在していた東インド管区巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの招きに応じて1582年に同地へ赴き、すでに同任務のため研究を始めていたミケーレ・ルッジェーリとともにマカオで中国語と中国文化の研究を行った。ってwikiにもあるけど、イエズス会教皇領の確認:なんだこの夏2024にレンタカーで彷徨ってたとこじゃん。親近感沸くぜ。

 そこで上記の太字を確認。特にこの受験の時期なんで某大学にも言及。合格せよ!

Monochrome version of the IHS emblem of the Jesuits. The design of the emblem is attributed to Ignatius of Loyola (1541). the cross is here drawn as formy fitchy; this is not necessarily part of the design, early modern depictions sometimes show a plain cross, or various baroque ornamentations the three nails are sometimes shown as piercing a heart the alternating straight and wavy rays are found in historical specimens, but not necessarily, and sometimes with two or three straight rays separating wavy rays. the number of rays is often 32 as here, but sometimes also 12, 16 or 24. the emblem is sometimes surrounded by the inscription et vocatum est nomen eius Iesus (Luke 2:21)

File:Sophia University.svg

千代田区紀尾井町 四谷駅前にキャンパスがある。徳川御三家尾張徳川家中屋敷&迎賓館の対面。ホテルニューオータニ:007 You Only Live Twiceブロフェルドの日本の本拠「大里化学」の本社ビルとして登場の横。丸の内線からも見えるよ!他にも、栄光学園中学高等学校@鎌倉市玉縄とかもあるよ。サッカー部も全国に行ったし、『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(歴史研究部の生徒たちに行った講義をまとめた書籍by加藤 陽子東京大学教授=2020年に、日本学術会議の新会員候補に推薦されたが、内閣総理大臣菅義偉によって任命を拒否された、、、山川出版社の教科書『詳説日本史』の執筆で。。。 

 まあ、日本史側の論争に巻き込まれるの困るので、catholic Church天主公教会バチカンは総本山 カトリック教会の概略も確認 VS Martin Luther in 1517 ダメだって。プロテスタント抵抗する人達 & Hな変態8世in England 聖公会: Anglican Church, イングランド国教会(Church of England)だし、チ。-地球の運動について-』 15世紀前半のヨーロッパの「P王国」では、「C教」という宗教が中心となっていた。地動説は、その教義に反く考え方であり、研究するだけでも拷問を受けたり、火あぶりに処せられたりしていた時代の話ね。知ってます? 地球と地と血かな?

1633年:地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは第2回の裁判で有罪だしね。

宗教改革後にヨーロッパで生まれたプロテスタント教会を「新教」、それ以前から存在するカトリック教会を「旧教」と呼ぶが、カトリック教会の側が「旧教」を自称したことはないんだけど。大乗と小乗みたいなんですね。大丈夫か?

undefined

中国にヨーロッパの最新技術を伝えるとともに、ヨーロッパに中国文化を紹介し、東西文化の歌け橋となった。した漢訳版世界地図であり、地球球体説を基にして六枚一組にして、卵型の図形の中心に中国を描きってあることから何が読み取れるか? 拡大してみると文章:漢文もあるけれど、勤務校で肝心なのは文章じゃないからね。

Matteo Ricci and Paul Xu Guangqi 徐 光啓 From Athanasius Kircher, La Chine … Illustrée, Amsterdam, 1670.日本に大きな影響を与えた農書農政全書』や、イエズス会士アダム・シャール(湯若望)の協力によって刊行した暦法書『崇禎暦書

上海青浦の出身。博学多才であり、学問に専心し1597年の郷試に首席で合格する。1599年にマテオ・リッチ(利瑪竇)の名を聞いて南京に行って教えを受け、1603年にジョアン・ダ・ロシャ(羅如望)の手で洗礼を受け、キリスト教徒となる。その後、進士に及第し、翰林院庶吉士となり、リッチとの交際が深まるとともに、いわゆる洋学の知識も広くなった。

ここで生徒らがすごい事に気が付いた。教科書版では小さくてわからんのだが、中央部の上の方にある部分。僕なんかカエルみたいに見えたのだけど、さすが本校の芸術・イラストの系の生徒達。ちゃんと読み取ってんだわ。マリアとイエスじゃないかって。サッカー部付属高校だけじゃないんですよ。

 で、これを検証するって僕が調べ始めたら面白くて、このブログになってます。

僕が探究活動してます。更に、このイラストをデジタル的に修正する作業もした奴があってこれだけ解像度の高いイラストが見えますよ。

十六世纪,随着开辟新航路线和西方国家开展殖民事业,天主教的海外传教事业发展起来,并再度传入中国。从明中叶起,耶稣会、多明我会、方济各会、巴黎外方传教会相继来华。万历十年(1582年)利玛窦来华,逐步打开传教局面。他尝试以传播科学知识为媒介,以天主教教义与儒家伦理观念相融合为传教方针,吸引徐光启、李之藻等人接受了天主教信仰。清朝初期,以耶稣会为主体的传教士基本上继承了利玛窦的传教方针。据康熙四十年(1701年)的统计,全国13行省共有传教士117人,传教士住院114处,大小教堂250处,教徒人数多达30万。然而,由于天主教与中国政治文化的矛盾和冲突,再加上西方殖民主义国家对传教区领导权和势力范围的争夺,以及长达百年之久的中国礼仪之争激化了冲突,导致清廷下令禁教,使天主教在中国的传播一度受挫。据嘉庆十五年(1810年)统计,全国天主教徒下降到21.5万人。これをGに翻訳して貰うと
16世紀には、新しい航路の開設と西洋諸国の植民地化により、カトリックの宣教運動が発展し、再び中国に導入されました。 明王朝の中頃から、イエズス会ドミニコ会フランシスコ会、パリ外国宣教協会が次々と中国に来ました。 万里の10年(1582年)に、マッテオリッチは中国に来て、徐々に宣教師の状況を開きました。 彼は科学的知識を媒体として広めようとし、カトリックの教義を儒教の倫理と統合し、宣教政策として、徐光奇、李志草などを引き付けてカトリックの信仰を受け入れさせました。 清王朝の初めに、イエズス会を主体とする宣教師たちは、基本的にマッテオ・リッチの宣教政策を受け継いでいました。 康熙帝の治世40年(1701年)の統計によると、全国の13の省に117人の宣教師がおり、114人の宣教師が入院し、大小の教会が250あり、信者の数は30万人にも上りました。 しかし、カトリックと中国の政治文化との間の矛盾と対立、西洋植民地諸国による伝道地域のリーダーシップと勢力圏をめぐる闘争、そして中国の儀式をめぐる100年にわたる論争により、紛争は激化し、清朝廷によるキリスト教の禁止につながり、中国でのカトリックの普及は後退しました。 嘉慶帝の15年(1810年)の統計によると、国内のカトリック教徒の数は215,000人に減少しました。
その後さまざまな変転があったが、21世紀現在でも春節の日取りは旧暦(= 時憲暦)をもとに決定することになっているため、公的にも一部残存する形となっている。こういった数字は別にして、気にしたいのは何だろうかって質問が!
*この地図が1600年代に入っている事。更に、現在の地図とほぼ同じって事。 
じゃ、違うところはどこだろうって質問から=南極&北極 
シロクマがシャチに襲われちゃっている現代=2025において意味を感じる。
*南極に続いて、オーストラリアが無い。だって、まだ探検隊が行ってないから。

Terra Australis Incognita(テラ・アウストラリス・インコグニタ、「南方にある未知の大地」という意味)と表されていた。

1606年に当大陸に最初に到来したヨーロッパ人はオランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーン。赤道に近い熱帯の北部地域に上陸し地図を作成したが、交易に値する物品はないと判断し、入植しなかった。

1770年にスコットランド人のジェームズ・クックが温帯のシドニーボタニー湾に上陸して領有を宣言。入植が始まり、東海岸をニュー・サウス・ウェールズと名付けた。なお、決定的証拠はないが、1770年に上陸したジェームズ・クックよりも150年も前に山田長政が先にオーストラリア大陸を発見していたという説がある(とわ言え出典が産経抄だからね、、、だめそれはじゃん=夢のある話は他にもあるけどね)

 それ以外はほぼ今の世界地図と同じだし、東経・西経の子午線や赤道、更に川!実はこの時代の川は高速道路であり鉄道と同じ意味があるんだって説明。のちにこれがコンゴ川ナイル川とファショダ事件と関連するんだよって話。

まずはサンタアナの風が猛威を振るった火事現場を特定してみん?

リオデジャネイロRio de Janeiroも探せる? 1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」英語だとRiver of January命名したけど、これって間違えちゃったて訳だわ。

駄目だよ!間違っちゃ。神も俺も見てるぜ!

でもちゃんとマゼラン海峡はわかるよね。偉い! 多分周辺部分含めいろいろ漢文で描かれているんだろうけどそこまでは読めない。

でも、文字情報テキストファイルは読めなくても良いと思います。豪州が無いってのが分かればよしとします。ちゃんとバリ島も出てるし。サイゴンはどうかな?

カンボジアはあるね。占城あんじゃん。




わしはわしだが鷹にでもなるかな?

サヌールで300円のIPA飲みながらレンタルバイクで北上するプランを考えました。
f:id:fujinosekaic:20250109114151j:image

まあ、IPAといえば黒砂breweryなんですが、ここSBGも悪くないです。通いました。f:id:fujinosekaic:20250109114218j:imageで、そろそろ移動。
f:id:fujinosekaic:20250109114251j:image

以前も放浪したバリ島の山間部温泉慰労(いや英霊慰問:日本の方と思しき墓標も確認)の旅のPart Ⅱ的にさすらう。 別掲でnoteにも!参照されたし。
f:id:fujinosekaic:20250109114327j:image

いろいろビール片手に会談しました@Black Sand Brewery 

親父は辛いよとか 経営者は辛いよとか 年齢も近いし、子供らの年齢も近いって:ウチの子たちの方がちょっと上だけど。子供を巡る課題は厳しくもあり、楽しくもあり。

更に僕個人で言えば、加齢なる両親(まだ生き恥晒して頑張ってる父91歳と母86歳:多少といかかなり呆けてますが、、体力も弱ってきた?まあ老衰ですけど、溜息のみ)と職務専念義務:都教委は再雇用短期の勤務でも兼職にはかなり制約があるのよ! 泣き。

で、旧来の定年年齢60歳を超えて、現状(勤務条件や同僚たち、社会科の仲間たち)にはそれなりに満足というか、甘んじてというか、「社会科教師」としてそれなりにやることはあるんですが、これまでやってきた事やその総括をしながら総合学科での勤務でいいのかという話になりました。確かに、教科書や資料集の誤記を指摘したり(決して語気を荒げる事は無いけど、編集サイドとしては面倒な奴ですよね?)

Y社やT書・H島さんとか、まあ、今更そちら側で提灯記事の締切に追われるのもNo thank youです。で帰国の途上にビジネス書も読みながら、現状でできることを考えました。

①急には退職できない(最低でも年内に管理職に通告しないと)=都教委の異動計画が崩れるて勤務先が大混乱=これ今年度の勤務校で最大の課題です。家庭科教諭の若手が昨年の春に急に辞めちゃったもんだから!講師対応なんですが、、適応できない方で。

②今までやってきた事の延長ででもできる事を探す。でも、単なる金儲けビジネスでは無く、何らかの「社会貢献」と「教育活動」にこだっわっていきたい。

③とわ言え、出来るだけリスクは回避したい。という事で考えたのがコレ!

この珈琲!!f:id:fujinosekaic:20250109114339j:image 

詳細はまだ詰め切れていないけど=feasibility studyはまだまだだけど以下のような企画を考えています。ハワイ産のコナコーヒー飲むより良くないですか?
1 これまでのタイモブ参加者や参加校の文化祭でこのコーヒー関連の企画をする。勿論社会科教員30余年のサポートはします。バリ島往復も30年(インドネシア全体入れると更に+10年)のぐらいの知見と、これまでのコネクションを駆使して生徒の「企画」をサポートします。しかも当面はボランティアで!

2 この「コーヒー企画」で気候変動と環境問題、バリ島の様々な課題は解決できないけど、考えるきっかけになる「学び」は提供できます。少なくてもインドネシア側、バリ側の事情も多少は把握してる身として、「日本ででも出来る企画」を考えるべきと思っています。特に、「総合や探求」を20年前からやってきた教員としても、生徒の「学習の履歴」になるサーポートを考えています。

3 とりあえずですが、このSu−re.coのコーヒーを輸入して販売したく思います。

バリ往復の幾たびに25キロぐらいはスーツケースで? まあ輸送コスト削減です。

勿論、アメリカの学校の生徒達みたいに校内で予約販売するのもいいし、文化祭等の企画や地域や町おこしに出店する企画もありだと思います。その際に生徒たちが付加価値つけるためのサポートはします。ドルトンとかどうですか? 布村さんには「都立高校でできないネタをまた持ってくるの?」って言われるかもしれないけど、生徒がこの豆で煎れた(焙煎った)珈琲を飲むのって良くないですか? 

4 ここから先は中村さんや高間さんたちと調整が必要ですが、春休みや夏休みの研修企画にこの豆の産地フローレス島にも行く。(ついでにコモドドラゴンにも会う?)

生産者と生産地を見てくることは大切。そこから考えることも沢山ある。現場はビシン君に!

5 出来たらフローレスよりもバリ島内の農園でカーボンクレジットを進める意味でも、バリ島産のものに置き換えていきたい。更には日本側でサポートできる企画をそのコーヒーを飲みながら考える教員研修を実施する。ズームでもいいけど、ウチの鎌倉の家を研修会場にしてリアルにやってもいい。これはすぐにでも出来ます。

6 将来的にはJAVA島側でも同じような企画を考えたい。これはスマランのベンとかと調整してみたい課題でもある。  f:id:fujinosekaic:20250109114300j:image
一富士二鷹三茄子ですね。

ふじのが三鷹でなす確信2025 for sure.

 

 

 

 

 

 

もしもし wéi 喂 ウェイ 中国史問題模試的中から

こんな動画も作りました。いつ抹殺されるbyヨウツベ警察かも知れんので早くアクセス!

抹殺されたら https://video.wixstatic.com/video/d3aa22_4726a008fc0b4b019f07085c171ab045/1080p/mp4/file.mp4

夏には間に合いませんでしたが、冷やし中華食べながらでも考えてみたい漢民族の歴史。ちゃんと学んでる歴史教員ならばご理解いただけると思いますが。ハイ。

だから中山先生も藤野先生も大切なんですby 魯迅台北でも北京でも行けばわかる!
昔センターの問題にも出題されたでしょ!as you know!

 



 

アメリカよアメリカよ!アメリカかよ!

WWIからVW体制からのWW2への道はブルーな気持ち? 狂った20’sの狂詩曲の裏で

https://video.wixstatic.com/video/d3aa22_4cced6028dac45b4a3af22667a9a4ce7/1080p/mp4/file.mp4

3Cも3Bもネ~から。あるとしたら4Cで4Bだから。教科書の挿絵をよく見ろ!って。

誰が作った捏造の世界史?By 受験世界史?By 予備校講師? こんな表現「世界」には無いから。誰か教えて!大先生とか知らないですか?3B政策の出所 Basraに意味があるのにそんな事どこにも書かれていないのが疑問。挿絵にはPersiaってあるけどね。

更にHomeland は国家nationじゃネ~から。「15・16・17と私の人生も暗かったから」って宇多田の母さんも歌ってんじゃね。トランプの娘婿もだからね。2025が不安だ。

この後は次の動画を見てください。まだヨウツベに殺されてないうちに。1.75倍速でも!

youtu.be