fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

What she did was,,,, 読み取り&出版社リテラシー

図版1「怒れる正義のブリタニアテニエル作1857年9月12日付「パンチ」誌

タイトルがイイね。JUSTICE 

図版2セポイを処刑する英軍
ワシーリ・ヴェレスチャギン作(1842-1904)1876-77年に英領印度を訪れて、セポイの乱などを描いたロシアの画家(1904年日露戦争のさなか彼の乗った船が旅順で撃沈されて死亡) てことは誰がKill him? プーチン戦争の今だからこと強烈だよ。でもイラストだからね。脚色があるかもしれない。ならば以下の文章を読んでみよう。

18世紀後半、イギリスで産業革命が始まり、機械織りの安い綿織物が生産されるようになると、インドは原料である綿花の供給地とされた。さらにイギリスは、インドの伝統的な手織りの綿織物をつぶさない限り、イギリス製の綿製品はインドに入り込むことはできないと考え、その結果、インド各地で優れたキャリコ職人の目をつぶしたり、両手を切り落したりして、インド土着の綿織物産業の壊滅を図った。

こうして、インドから(糸紡ぎ機)はすっかり姿を消してしまったのである。また、イギリスは近代的地租制度を採用し、税を払えない場合には厳しい罰を与えた。

インドの人々は嘆いた。昔は、地租を払えないときには領主による鞭打ちの刑が待っていた。痛いのを我慢しさえすればそれで済んだ。しかし今は、イギリスの法律によって土地が差し押さえられ、その代金で穴埋めしなくてはならない。大事な土地を失ってしまうのだ………。イギリスは、インドを植民地としてことさら重視していた。そして、インド支配の口実として、「憂うべきインドの問題を改善する」と言った。厳しい身分制度カースト、あるいは“アンタッチャブル(不可触賎民)”と呼ばれたアウトカーストの問題、恐ろしく低いインド女性の地位(幼妻・夫に対する絶対服従・サティ)、その他狂信的なヒンドゥーの風習etc.………。それらを廃止することに、イギリスは「委託された使命」を感じた。しかし、誰から「委託」されたというのだろうか。インドの人々が委託したのではないのだ。公用語として推進された英語教育の責任者であったマコーレーという人物は次のように言っている。「血と皮膚の色ではインド人であるが、趣味や考えや精神や知性の点でイギリス人であるような社会集団が望ましい」。

スィパーヒーの乱へ

1857年にはいってまもなく、イギリス人には奇妙としか思えない出来事が、インド各地で見られた。インド人の主食であるチャパティ(小麦粉を平たく焼いたパン)が、おそろしい速さで北インドの村から村へと配られていたのである。配っている者でさえ、「5つのチャパティを焼いて、その先々へ配れ」という命令に従っているだけで意味は何もわかっていない。そのうち、今度は、兵士の手から手へ、連隊から連隊へと、美しい蓮の花が手渡されていくことにも気づいたイギリス人はぎょっとしたという。このことが一体何を表わすのかは今もって明らかでないが、インドでは反乱の直前にこのような光景がよくみられたという。予言者は、プラッシーの戦いから100年目の1857年に、イギリス支配は終わり、イギリス人は海に追われて死ぬ」と不気味な予言をした。このような雰囲気の中で、1857年5月、デリーの北方でスィパーヒー(セポイ=イギリス東インド会社のインド人傭兵)が反乱を起こしたのである。反乱のきっかけは、スィパーヒーの使う弾丸の薬包に牛と豚の脂が塗ってあるという噂だった。牛は、ヒンドゥー教徒が神聖視する動物、豚はイスラム教徒が嫌う動物である。薬包から弾丸を取り出すためには、歯でかみ切らなければならない。信仰を守るため、薬包に触ろうとしなかった85人のスィパーヒーが投獄されると、彼らを助けようとスィパーヒーたちの間に暴動が起こったのである。

イギリスは当時、クリミア戦争、アロー戦争などで忙殺されていたが、中国へ派遣中の部隊を急遽インドに回したりして大弾圧を行なった。イギリスの新聞『タイムズ』は「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたき壊せ。白人殺害1に対し老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ」と主張し、インド人に対する残虐な報復をあおった。捕虜は見せしめのために大勢の村人の見ている前で大砲の砲弾に縛りつけられて吹き飛ばされたまた、縛られたまま舟に乗せられて激流に流されたり、象に引かれて身体を八つ裂きにされたりした。

イギリス兵の中には、とろ火で捕虜を焼き、「炎の中で肉がはじけて焦げるとき、肉の焼ける異様な臭いがたちのぼり、あたりの大気に充満する」のを楽しむ者さえいた。こうして、インド大反乱は大量の犠牲者とともに鎮圧され、インドはイギリスの直轄領とされた。インドの新たな苦難の道が始まる。

って文字読むの面倒な人は下記にアクセスnow 動画にしておいた。

https://video.wixstatic.com/video/d3aa22_dc094800f9204d03b3dd09b2c101f5be/1080p/mp4/file.mp4

 

1856年、英はペルシア湾の特殊権益を得ようとしてセポイとともにイランに侵入した。翌57年3月、英印軍はイランと講和を結び、白人兵がデリーにいないときにセポイは乱を起こした。乱は英の残酷な弾圧の下で鎮圧されたが、その反英的な性格はその後のインドの反英闘争の起点となり、インドの近代史が開幕した。5月10日 日曜日の日はくれかかった。第20連隊が蜂起の準備を完了したとき、教会の鐘がなりはじめた。ミールートの町には、何千という民衆がふるぼけたこわれた武器をもってあつまりはじめた。ミールートの市民ばかりでない。付近の村々からも民衆があつまった。5時、「マロー、フィリンギ!」(異人を殺せ!)の声がとどろいた。まず数百の騎兵が監獄にかけつけて、その仲間を解放した。……イギリス人は手あたりしだいに殺された。剣、槍、棒、ナイフ、その他あらゆるものがこれに動員された。イギリスの支配に関係あるすべての建物が焼かれた。焼けない家はうちたおされた。血を見、炎を見るとともに、復讐の炎はますますもえさかった。デリーへの電信線は切断され、鉄道線はかたく防衛されたから……孤立したミールートのイギリス人は、一晩中「マロー、フィリンギ!」の声に逃げまどった。……デリーの新政府は、まず全インドにむかって、イギリスの支配がおわり、全民族が解放されたことを宣言した。この布告はインドの南端にまで達した。各地でそれを写し、あるいは一部をぬき出して、ビラにして呼びかけとして使った。つづいてデリーの革命軍は、武器弾薬の製造にとりかかった。 砲弾、小銃弾、大砲、小銃、火薬などをつくる工場が作業をはじめた。また、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との結合を強める政策からして、ヒンドゥー教徒が神聖とする牛を殺すことが厳禁された。イスラム教徒がいう聖戦とは、イギリスだけに対する聖戦であることが強調された。( V,D,サヴァルカール 鈴木正四訳 『セポイの乱ノンフィクション全集7 筑摩書房)ってことはかなり信ぴょう性があるのよ。ゴミみたいな出版社、歴史修正主義加担出版社もある中で。筑摩は安心です。

で、こんな資料を配布してます。そしてそれは教科書や資料集にはどう記述されているか検証だね!

インドの植民地化
ムガール朝の衰退;アウランゼーブ皇帝期(58~1707年)

スラム教の強制→ヒンドゥー教徒シーク教徒の反抗

植民地化の進行 1757年 プラッシーの戦い

イギリスのインド支配本格化→65年 アラハバード条約(べンガル地方租税徴収権獲得→ベンガル東インド会社領化、領土的支配開始)→マラータ戦争(75~82年、1803~05年、17~19年)でマラータ同盟征服→綿花、アヘン栽培→イギリスの産業革命→イギリスの機械製綿布流入[インドの木綿工業破壊]及び「近代化策」→飢饉・重税→インド人の生活破壊
1857~8年 セポイの乱 (1857年5月10日)
 セポイ-土民軍、インド及び周辺地域の先兵、反乱の背景-英の植民地支配、イランの反乱鎮圧のためインド支配が手薄なっていた、反乱の契機-宗教的動機、結果-残酷に鎮圧される(←宗教的、種族的、カーストの違いが団結を妨げる)
1858年 東インド会社解散ムガール皇帝を廃止、イギリスの直営地化
鉄道敷設、道路整備、教育制度の「近代化」→イギリスへの従属化強まる
77年 インド帝国成立-ヴィクトリア女王、インド皇帝を兼ねる→完全植民地化
ie:鉄道建設(1860年~)
セポイの反乱後、1860年代のインドで鉄道建設が急速に進んだ。1902年に全長2万6000マイルに達している。1957年の日本のそれが1万2600マイルだというから建設の速さの激しさをうかがい知ることができる。鉄道建設は異常なまでに進んだが、現在に至るまでインドでは機械制工業の発展は遅れている。この不均衡はどこからきたものだろうか、その答えが次のとおりである。

A 鉄道建設の意図政治的・軍事的必要性・対露策、治安対策→人口のないところに鉄道が敷設されている。 商業的開発・輸出産業の開発、英工業製品の市場→綿花、小麦、茶、ジュート、アヘン 投資による利潤追求
・インド政府(帝国)により投資資金の元利保証、広軌より幅広の鉄道を建設、広軌の 3~10倍の資金が必要→利潤が大きい
B 鉄道建設の影響ボンベイの木綿工業に大打撃→インド人資本家の中に反英的風潮、ナショナリズムの 高揚>>>インド財政逼迫→増税
 農村の破壊 自給自足の経済崩壊、貨幣経済に依存→寄生的階級の成立、農民大衆の 疲弊(隷属的小作人、農業労働者化) 英国内に帝国主義支持勢力が形成される
( 松井 透 「イギリス帝国主義とインド社会」『岩波講座 世界歴史』巻22 )

 

ア ジ ア ・ ア フ リ カ の 従 属 化:オスマン帝国の解体と東方問題
オスマン帝国の衰退:18世紀後半 オスマン帝国ロシアに敗北し黒海北岸失う→露・墺バルカン進出→ これに対抗して仏が干渉→19世紀以降 自由主義国民主義の影響で諸民族の独立運動高まる→列強、それを利用して介入
2 エジプト事件(1840年):20年 ギリシア独立のとき、エジプトはトルコを援助し、代償として領土拡張、自由主義的改革を承認される(メヘメット・アリ)→31年 エジプト・トルコ戦争(露はトルコを助け、ダーダネルス海峡通行権を獲得)→英仏不満→39年再び開戦英=仏=土vsエジプト→エジプトの敗北→エジプト、領土要求放棄、ダーダネルス、ボスポラスの中立化、

の南下政策失敗>>アフニガスタン、イラン、>>>>>>

アフガニスタン-アフガン人(イラン、トルコ人の混血人)
 アフガン戦争(34~42年、78~81年)→イギリスに従属
2 イラン 56年11月 英印軍侵入(ペルシア湾沿岸に権益を求めて)

ビルマ→57年 抵抗の