fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

これで終わりにしないとダメかい?

現在のパレスチナの地へのユダヤ人帰還運動は長い歴史を持っており、ユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、アラブ人とともに衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた しかし、1947年の段階で、ユダヤ人入植者の増大とそれに反発するアラブ民族主義者によるユダヤ人移住・建国反対の運動の結果として、ヨルダンのフセイン国王暗殺)、平和統合国家案は非現実的な様相を呈し、イギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。 1947年国連総会で、各地の多数派住民の居住状態に基づき56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするというパレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決された。アメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が反対した。(イギリスは棄権)1948年2月アラブ連盟加盟国は、カイロでイスラエル建国の阻止を決議した。アラブ側によるテロが激化する中、1948年3月アメリカは国連で分割案の支持を撤回し、パレスチナの国連信託統治の提案をした。1948年5月イギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称パレスチナ分割決議)に基づき、1948年5月14日に独立宣言し誕生した。同時にアラブ連盟5カ国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノンイラク)の大部隊がイスラエル殲滅を目指してパレスチナに進攻し、第1次中東戦争が起こった。楽勝が予想されたアラブ側は内部分裂によって実力を発揮できず、イスラエルは人口の1%が戦死しながらも勝利する。戦争に伴った結果として、1948年の時点でパレスチナの地に住んでいたアラブ人(広義)が難民化した。

During the 1950s there was considerable tension between Israel and Egypt, which, under President Nasser, had become a leader in the Arab world. His nationalization of the Suez Canal 1956 provided an opportunity for Israel with Britain and France, to attack Egypt and occupy a part of Palestine that Egypt had controlled since 1949, the Gaza Strip , from which Israel was forced by UN and US pressure to withdraw 1957 .