fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

44 ナチス台頭 VW計画 独裁も選挙から 君もポルシェが欲しいか?BMWか?    レクサスはお高い 日中 いくさに向かう  515  

44 ナチス台頭 VW計画 独裁も選挙から 

君もポルシェが欲しいか?BMWか? レクサスはお高い=でもトヨタだよ

日中 いくさ1932に6向かう  515

第一次世界大戦後ドイツと連合国の間で結ばれた講和条約。眼目は、ドイツ国軍主義復活の防止と、国際平和体制の復活にあった。 ドイツは領土を割譲し、全植民地を失い、軍備を制限され、莫大な賠償を課せられた。 その苛酷な条件は、かえってドイツ国民の反感を激発。 ナチスの台頭に好地盤を与える事になった。 条約はまた 史上初の平和維持機構として、国際連盟を成立させたが、初めのうち、米ソの二大国が参加せず、後に中軸諸国が脱退し実質上制裁力を欠き、第二次世界大戦の勃発を防げなかった。1989年に始まった東欧変革が、実はヴェルサイユ条約後の独立国を舞台にした事から、20世紀の国際政治にあたえた遺産の大きさが再認識されている。VWへの道

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ヒトラーの掲げた国民車構想に基づき、フェルディナンド・ポルシェの設計した国民車が、フォルクス・ワーゲンである。長い戦争による中断の後、生産を再開し、ビートルのニックネームで世界中の人々に愛されている。

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国家社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche ArbeiterparteiNSDAP1920年に結成され33年から45年まで単独政権へ

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教育勅語に基づいて天皇崇敬軍国主義を浸透させる為に御真影と伴に教育の場で使用されたWikipediaより

Hitler begins the Autobahn  digging in 1933

個人より国家・民族を優先させて国家主義を主張する独裁体制では、通常全体主義と呼ばれ、 その先駆になったイタリアのファシストに因んで、広義にファシズムと呼んでいる。 国家繁栄の為には、個人の基本的人権、民主主義は否定され、強権による独裁体制は第一次世界大戦後のイタリアのファシスト、ドイツのナチス、日本の軍国主義など後発資本主義国家に成立した。第一次世界大戦に敗れたドイツでは、1320億○マルクという天文学的な賠償金支払い義務が課せられ、ベルサイユ体制に対する国民の不満は根強かった。 1923年賠償金未払いを理由に仏・ベルギー両国が工業地帯のルール地方を占拠するとドイツ産業は大打撃を受け、極度のインフレが進行した。 戦後ドイツでは様々な右翼勢力の活動が続いた。その一つがナチス国家社会主義ドイツ労働党である。 党首ヒトラーは23年共和国政府打倒のミュンヘン一揆を起こしたが失敗し、投獄された。 世界恐慌の波及でドイツでは、失業者が600万人に達した。 ベルサイユ体制打破、大ドイツ国家の樹立、反共産主義、反資本主義を唱えたナチスは巧みな宣伝と大衆動員によって躍進し 32年の選挙で第一党となり翌33年1月ヒトラー内閣が成立した。 ヒトラ


ーは国会議事堂放火事件を口実に共産党を非合法化し、全権委任法により行政、立法の両権を握り、 34年には総統に就任、ドイツ第三帝国を樹立した。

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Perhaps best known throughout the world for its superior engineering and open stretches without a speed limit, the Autobahn was Hitler's invention from his dreams about an interstate highway system. Over 2000 km were built by 1938 and today approximately 11.000 km cover Germany. True to stereotypes about German engineering and maintenance, road designs are solid without a single pothole, with 4% or lesser grades, long acceleration and deceleration lanes, gentle curves, and free-resistant surfaces. Just as Hitler insisted on having buildings and other infrastructure that would last 1000 years, the engineers of the Autobahn design things right the first time and perform critical inspection and thorough maintenance to keep the best highway system in the world at peak operational performance. Copyright © 1999-2002 - Hitler Historical Museum - All Rights Reserved

ナチスドイツにおける選挙妨害とはどのようなものか。チスの取った選挙妨害で一番ポピュラーなものが党の武装機関である「突撃隊(SA)」による他政党の集会の妨害です。彼らは党設立初期から存在し、褐色の制服に身を包んで、特に共産主義者らと激しく闘いました。ただし注意しなくてはならないことはこの時代、ナチスだけでなくごく普通の政党もこのような武装闘争組織を持っていました。現在のドイツ連邦議会で第一党の社会民主党ですらこのような組織を保持していました。しかしやはり過激さではSA並びに赤色戦線(ドイツ共産党の武装組織)に並ぶものはなく、当時も第一党であった社会民主党の集会は彼らの前にひとたまりもありませんでした。そしてナチスが政権獲得後に取った妨害手段がまず反ナチス的政治集会、出版物の禁圧を合法化する法令の布告です。これによってナチスは国家の警察権力を使って自分たちに反対する者たちを合法的に処分する権利を得ました。そして極めつけが国会議事堂放火事件後に大統領からナチス政府に与えられた「国民国家防衛緊急布告」です。これによりナチスはワイマール憲法に定められた「国家非常事態に際しては国民の基本的人権を一時的に停止することができる」という条項を盾に、反対者をその者の人権を考慮することなく、つまり法に則ることなく身柄を拘束したり牢獄にぶち込んだりすることができるようになりました。さらに前出のSAが「補助警官」として国家警察の一部に組み込まれ、1933年1月30日にナチスが政権を獲得してから直後に国会が解散され、その次の選挙が行なわれた3月までの約2ヶ月あまりの間に数千人にも及ぶ人々が収容所送りにされました。収容所に送られた人々は政党の幹部の人も多く、彼らの選挙に大きな打撃を与えました。そして3月の選挙以降はナチス以外の政党がすべて禁止されたのでここにナチスの一完全独裁が確立されました。ただし、ナチス一党独裁確立後も選挙を続けました。というのも彼らはドイツ国民が投票所に行ってナチスを支持するという投票を行なう行為自体をナチスへの忠誠とみなしたからです。つまり彼らにとっては投票そのものが重要であり、投票率が重視されました。また彼らにとって選挙は国外へのアピールという目的もありました。つまりナチスの政策が国民にこれほどまでに支持されている、ということを諸外国にアピールするのです。その為、ヒトラーの総統就任、オーストリア併合など重要な政策が行なわれた後には、選挙や国民投票が必ず行なわれました。

 

ていうことを知ると以下は怖い話だよ。最近の問題だよ

「何百万人殺したヒトラーは、やっぱりいくら動機が正しくても駄目だ」と続けたのだ。これではホロコーストで何百万人ものユダヤ人を虐殺したヒトラーの動機が正しかったと言わんばかりである。

 当然ながら野党からは批判が相次いだが、イギリスの大手新聞「ガーディアン」も麻生氏について「日本の麻生太郎大臣がヒトラーを称賛、彼は“正しい動機”を持っていたと発言」と報道した(8月30日)。

なぜ麻生太郎はナチスとヒトラーにこんなにこだわるのか? | 文春オンライン

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日本がドイツのユダヤ人虐殺について知っていながら国益のために軍事同盟を結んだのか。もともとナチス反ユダヤ主義は政権獲得前からも有名でしたし、さらに政権獲得後もその反ユダヤ主義政策は表立って行われていましたから、ドイツ本国でユダヤ人の迫害が行われていたことは容易に想像がついたでしょう。ただ問題は「迫害」は知っていても「虐殺」まで知っていたか、ということなのですが、これはかなり微妙だと思います。というのも最初の日本とドイツの条約「日独防共協定」が締結されたのが1936年の11月です。この時点では大規模な強制収容所での大量虐殺は行われていませんでした。というのもナチス最初の絶滅収容所ポーランドに建設されたのは1941年のヘルムノ収容所なのです。ここで一般に強制収容所と言われているものにも2つの種類があったことを知っておかなければなりません。通常の収容所と絶滅収容所です。通常の収容所はユダヤ人のほか、ドイツ人の政治犯、反体制派、犯罪者、宗教的保守主義者なども収容され、産業界に安価な労働力を提供することを目的とし、虐殺が目的ではありませんでした。ただ劣悪な労働条件により多数の犠牲者が出たことは事実です。これは1933年、ナチスが政権獲得直後に設置されました。それと一般に「強制収容所」と言われているのが、「絶滅収容所」でこれはユダヤソ連軍捕虜が送られ、その名の通り、彼らの絶滅、つまり虐殺が目的でありました。これらの収容所は終戦まで並存していました。日独防共協定が結ばれた当時、ドイツ国内に確かに強制収容所は存在していましたが、絶滅収容所は存在していませんでした。よって大規模なユダヤ人虐殺は行われていなかったため、日本はユダヤ人虐殺については知らなかった可能性もあります。とはいえ、この時期、つまり1930年代は確かにユダヤ人が一番の迫害対象でありましたが、ナチスはそれ以外にもドイツ人で「国家に貢献しない者」つまり精神病患者や遺伝的疾患を持つ者、犯罪者、ジプシーなどを一般の人々に知られないよう、極秘に抹殺していました。しかしさすがに「ナチスが精神異常者を殺害している」という噂はすぐに広まり、すぐにこの措置は取り消されることになりますが。ユダヤ人虐殺の陰に隠れてあまりズームアップされませんユダヤ人と同様、ひどい迫害を受けた人々にジプシーがいます。一般の人々も精神病患者とはいえ同じドイツ人を抹殺するのには抵抗があったのかもしれませんが、彼らジプシーにはほとんど関心を持ちませんでした。その為ナチスによるジプシー狩りは徹底して行なわれ、彼らは収容所に次々に送り込まれました。このようなドイツ国内の「敵=国家に貢献しない者」に対する虐殺行為を日本が知っていたか、という点に関してはこれはある程度、日本が知っていた可能性はあると思います。先の精神病患者に対する虐殺は市民の間でもささやかれる程、公然の秘密になっていましたから、情報収集のプロである外交官が知らない、ということはあまりないでしょう。さらに当時のドイツ大使はナチスの中枢まで食い込んだ大島です。ある程度の情報を知っていた可能性はあると思います。ただ、evidenceさんも述べているように、当時の人権感覚というのは、現在のそれとは全く違います。かのキリスト教会ですらユダヤ人の迫害を黙認していました。仮に日本がそれらの虐殺の事実をしっかり把握していたとしても対応は変わらなかったでしょう。 それと最後までヒトラーは人々に支持されたか、という点についてですが、人々の心情は不勉強でちょっと分かりません。ただ、大戦末期においても「独裁者」であり、「選出される」という存在ではありませんでした。軍もヒトラー個人に忠誠を誓っていましたし、ヒトラーの総統としての地位は自分からやめない限り永遠に保障されるものでした。選挙も最後の自由選挙が行なわれたのはヒトラーが政権を握ることとなった1932年11月の選挙です。それ以後はナチスが選挙活動を妨害したり、ナチス以外のすべての政党を禁止したため、名目だけの選挙に終わっています。よって選挙結果を見る限りは「支持されていた」と言えるのです。最後に虐殺の事実は敗戦前に知られていたか、という点ですが、これは噂の範囲である程度知られていたことが分かっています。というのもユダヤ人本人たちの、あるいは彼らを助けるためのドイツ人、外国人らによるネットワークが存在し、それによって国外にも知られていました。特にユダヤ人らが押し込められたゲットーにもその情報はもたらされ、彼らは強制収容所行きの列車に乗せられた時点でその先に待ち受ける運命を悟ったといいます・・某HPよりの意見