fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

Mortality 死亡率からのVW体制 サイパンにも行きたい?

Soldiers from Fort Riley, Kansas, ill with Spanish flu at a hospital ward at Camp Funston

全世界で5億人が感染したとされ、 世界人口(18億-19億)のおよそ27%(CDCによれば3分の1)とされており、 これには北極および太平洋諸国人口も含まれる。死亡者数は5,000万-1億人以上、おそらくは1億人を超えていたと推定されており、人類史上最も死者を出したパンデミックのひとつである。現状の歴史的・疫学的データでは、その地理的起源を特定できていない。また、なぜ終息したのかも、依然として研究対象である。パンデミックが始まった1918年は第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていた。一説によると、この大流行により多くの死者が出たことで徴兵できる成人男性が減ったため、第一次世界大戦終結が早まったといわれている。

 

世界:ニューヨークベルリンパリロンドンの死亡者数のグラフ 上図

世界全体の推定感染者数は世界人口の25-30%(WHO)、または世界人口の3分の1、または約5億人とされる。当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。1927年からの初期の推定では2160万人。1991年の推定では2500 - 3900万人。2005年の推定では5,000万人からおそらく1億人以上。しかし、2018年のAmerican Journal of Epidemiologyの再評価では約1700万人と推定されている[。死者数を国別で見ると、特に甚大な被害を受けたのはインドで1200 - 1700万人、アメリカ50 - 85万人(CDCの推定では67万5000人)、ロシア45万人(別の研究では270万人)、ブラジル30万人、フランス40万人以上、イギリス25万人、カナダ5万人 、スウェーデン3万4000人、フィンランド2万人、等となっている。これらの数値は感染症のみならず戦争災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである。

日本1918年大正7年)4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。福岡県久留米市では、5月に大阪歌舞伎界の花形役者だった雁次郎丈が市内で公演した数日後に流感が流行し、「雁次郎かぜ」と呼ばれた。その後、同年8月に日本上陸、10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していること[82]や、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが報じられた。第1波の大流行が1918年10月から1919年大正8年)3月、第2波が1919年12月から1920年大正9年)3月、第3波が1920年12月から1921年(大正10年)3月にかけてである。当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染、約39万人が死亡したとされる。著名人では1918年に島村抱月が、1919年に大山捨松竹田宮恒久王徳大寺実則辰野金吾が、1920年末松謙澄がスペインかぜにより没している。日本各地に収容されていた日独戦ドイツ兵捕虜にも感染者が相次ぎ、1919年1月1日には習志野俘虜収容所の所長だった西郷寅太郎も病没した。

別の有名な収容所のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのが、四国の板東収容所です。

捕虜となり、日本へ行った捕虜の話も有名 この会社の、、、 Karl  Juchheimとは?

挙式直後の1914年8月1日、ドイツはフランスとロシアに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦した。青島市はドイツに宣戦布告した日本軍の攻撃を受け、11月7日に陥落。ユーハイムは非戦闘員であったにもかかわらず、しかも翌年9月になってから日本軍の捕虜となり、大阪府大阪市西区南恩賀島町地先にある大阪俘虜収容所へ移送された。収容所の中でユーハイムは青島市に残した妻と子(ユーハイムが連行された時、エリーゼは妊娠していた。エリーゼは1915年11月4日に長男カールフランツを出産している。)のことを思い悩む日々を送った。

1917年2月19日、インフルエンザの予防のため[1]、大阪俘虜収容所に収容されていた捕虜は全員、広島県安芸郡仁保島村(現在の広島市南区似島)にある似島検疫所に移送された。1919年3月4日、広島県似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品の展示即売会を開催することになり、ユーハイムバウムクーヘンなどの菓子を作ることになった。ユーハイムは材料集め(バウムクーヘンを焼くには堅い樫の薪などを必要とした)に難航したものの、バウムクーヘンを焼くことに成功、広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)にて開催された「ドイツ作品展示会」で製造販売を行う。このバウムクーヘンが、日本で初めて作られたバウムクーヘンとなる。

 

第一次世界大戦スペイン風邪第一次世界大戦が感染拡大の主因となるとともに、戦争の結果にも大きな影響を及ぼした。1919年、ドイツ軍は春季攻勢を仕掛け、パリ付近にまで迫るほどの快進撃を見せた。7月にはさらなる攻勢に出ようとしたが、栄養不良の兵士たちの肉体をインフルエンザ・ウイルスが蝕み、実行できなかった。戦力不足と物資不足により、最終的にドイツは敗戦。独軍指揮者のエーリヒ・ルーデンドルフは、「ドイツ陸軍を弱めた、あのいまいましいインフルエンザのせいなのだ」と嘆いている。2006年のランセット誌の研究において、ドイツ(0.76%)とオーストリア(1.61%)の超過死亡率が、イギリス(0.34%)とフランス(0.75%)と比べて高いことが示された。さらに、翌年1月、大戦の講和条約を検討するパリ講和会議が開かれた。連合国のうち、イギリスとフランスはドイツへの報復を主張していたが、米国のウィルソン大統領は、平和を維持するためにはドイツに過大な賠償を課すべきではないと考えていた。ところが、ウィルソン大統領は講和会議中にスペイン風邪を発症し、出席できなくなった間に、英仏両国が議論を主導して巨額の賠償を求めた。このことがドイツ経済の致命的な破綻をもたらし、ヒトラーの誕生、そして第二次世界大戦に繋がっていったとも指摘される。1320金マルクの呪縛からVWへ 

ヴェルサイユ平和条約 【大正9年(1920)】 4:国立公文書館

実際の絵はこれです。拡大君ですね。

どこ?by William Orpen - The Signing of Peace in the Hall of Mirrors:鏡の間, Versailles

 1919年4月3日フランスのクレマンソー、イギリスのロイド・ジョージらと密室で会談をしていたウィルソンは、午後3時ごろから声がかすれ始め、午後6時ごろには咳が激しくなり呼吸をするのもやっとの状態になりました。その日の夜半39.4度の高熱を出し歩くのもやっとの状態となりました。同行していた主治医のグレイン医師の診断で、スペイン風邪と診断されました。高熱のほか激しい腹痛と下痢を引き起こし、急性脳炎も発症しました。4日後の4月7日、熱も収まり会議に復帰しましたが、健康状態の不安を抱えたため、前からこだわっていた国際連盟設立を急ぎ、そのほかの点には、妥協を見せるようになりました。そこでフランスは、国際連盟設立を認め、さらにラインラント占領も15年間の期限を儲け、15年後には住民の投票によって決めることとした。

 その代わり、ウィルソンが反対していたアルザス・ロレール地方の併合と莫大な賠償金の請求を認めさせました。イギリスも国際連盟設立に賛成する代わりに、ドイツが望んでいた海上封鎖の継続を承認させました。その後の歴史は、ヴェルサイユ条約で課せられた巨額の賠償金により、ドイツは深刻な経済危機に陥り、国内に不満が高まりました。そこに現れた、ドイツ国民の誇りを蘇らせ偉大なるドイツ第3帝国(第1帝国は、神聖ローマ帝国、第2帝国はドイツ統一を成し遂げた、ビスマルク時代の帝政ドイツ)設立を唱えるヒトラーに国の将来を託し、第2次世界大戦を開いてしまうのでした。

その後のWW Woodrow Wilson

もともと偏頭痛の持病があったが、1919年10月2日にコロラド州脳梗塞を発症した。一命は取りとめたものの、左半身不随、左側視野欠損、言語障害といった重い後遺症が残り、大統領としての執務は事実上不可能となった。しかし、主治医と大統領夫人のイーディスはこの事実を秘匿し、以後の国政の決裁はイーディスが夫の名で行うこととなった。ウィルソンは長期間のリハビリを経た後、政権末期になってようやく閣議に出席できるまでに回復したが、言語に明瞭さは戻ったものの機械的で感情を欠き、政策も無為無策で事なかれ主義が目立つものとなった。こうした事態を収拾し職務を代行すべきであったトーマス・マーシャル副大統領は、そもそもウィルソンと不仲で副大統領職も半ば嫌々引き受けたという事情もあり、大統領の職務不能を知ってもあえて火中の栗を拾おうとはせず、いくつかの儀典に大統領の名代として参加した他は職務権限の代行は一切しなかった。

こうした事実が明らかになったのは、実にウィルソンの死後になってからのことであり、これが後の大統領権限継承順位を明文化した憲法修正第25条制定の伏線となった。

人種的差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)とは、第一次世界大戦後のパリ講和会議国際連盟委員会において、大日本帝国が主張した、人種差別の撤廃を明記するべきという提案を指す。イギリス帝国の自治領であったオーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。

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https://video.wixstatic.com/video/d3aa22_b83ad0346d2646bc8fd86c2489cf2fa5/480p/mp4/file.mp4 民衆の声も聴けよ アメリカ民主党