fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

#16 1588今晩は!あるまだ?無敵艦隊も沈む嵐の夜への道

https://blog.hatena.ne.jp/fujinosekaic/fujinosekaic.hatenablog.com/edit?entry=26006613575091142 を受けて(こんな黒板:赤は英,黄は西,白はオスマン

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制海権と海軍力=海賊力に至るまでの攻防の歴史=血みどろ。そこに愛はあんんか?

しかしヘンナー奴だよね。別に他国の王室の批判するつもりないけど

彩の国さいたま芸術劇場、ストラトフォード・フェスティバル『ヘンリー8世』感想 - 『薔薇王』にシェイクスピアをさがして

(日本だってネエ)。何人嫁殺せばいいんだって受験期に思った思春期。まあ後継者の問題はあるんだけど、、、でもあの席にダイアナが座ってなかったのは寂しいし、息子たちだってグレはしないだろうけど。それでも弟の方の嫁たたきって何なんだろう? 非白人の血が入っているから? いつの時代も不都合な真実はつぶせかな。まあ、狂気の世界だわな。で、ぼくちゃんはともかくとしてこのH8って酷いって。あんな人達もお友達も、、、で、とりあえず王様H8の配偶者の公式の方々だけでも紹介しておくわね 

ちなみにあまりにもグダグダでゲロゲロなんで詳細は自分でググっておくれよ。国家機密暴露で僕は007に殺されたくも無いし。

  #1 キャサリン・オブ・アラゴン

政略結婚の犠牲者?イングランドヘンリー8世の最初の王妃(1509年結婚、1533年離婚)、メアリー1世の生母。

    #2  アン・ブーリン Anne Boleyn,1501年頃 - 1536年5月19日)

ヘンリー8世の2番目の王妃(1533年結婚、1536年離婚)、エリザベス1世の生母

#3 ジェーン・シーモア( Jane Seymour, 1508年 - 1537年10月24日)は、エドワード6世の生母。 2番目の王妃アン・ブーリン、5番目の王妃キャサリン・ハワードのはとこに当たる。1536年のアン・ブーリンの刑死後、ヘンリー8世と結婚し、翌1537年に男子(後のエドワード6世)を出産したが、その月のうちに産褥死した。こども生むのも命がけだよ。

アン・ブーリンの刑死後、奴は世継ぎの男子を産んだジェーンに感謝を込めて、6人の王妃のうちでただ一人、ウィンザー城内の王室霊廟において隣に眠ることを許した。墓碑にはジェーンを「もう一つの不死鳥に命を与えるために亡くなった不死鳥」と讃えている。

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  #5 キャサリン・ハワード

ヘンリー8世の#2王妃アン・ブーリンの従妹、3番目の王妃ジェーン・シーモアのはとこ

 #6  キャサリン・パー

6番目かつ最後の王妃(1543年結婚、1547年死別)

そして彼女たちのお相手はこの方 Hな8奴です。

晩年のヘンリーは肥満体だった上、怪我が元でできた脚の腫瘍とひどい頭痛に苦しんで寝込むことが多く、激昂すると手の付けられない状態だった。しかし#6キャサリンは、王の看護を侍医に任せきりにせず自ら率先して熱心に行ったため、ヘンリーの信頼を獲得した。1544年にヘンリーがフランス遠征をした3か月間、キャサリンは国王代理として摂政を任されたが、それは万が一ヘンリーが落命した際にはエドワードが成人するまでの間引き続き彼女が摂政たるべしとするほどのものだった。

 だって彼女は偉かったと思うよ。王妃となったキャサリンは、当時庶子の身分に落とされていたメアリー(後のメアリー1世)とエリザベス(後のエリザベス1世)の姉妹をすぐに宮廷に呼び戻して王位継承権保持者の地位に戻すことを王に嘆願し、これが1543年の第三王位継承法制定につながった。ヘンリーは少年時代からエラスムスと文通するほどの教養の持ち主だったが、そんなヘンリーと対等に学術談義ができるだけの知性をキャサリンは持っており、特に神学についての造詣が深かった。まだ幼いエドワード(後のエドワード6世)とエリザベスの養育を任されたため、彼らへの教育環境を整えたほか、音楽などの芸術についての関心も導き出し、王の子女たちも優しい継母を敬愛した。キャサリンとは3歳しか年が違わないメアリーは、以前からキャサリンとは親しく、継母となったキャサリンとはカトリックプロテスタントという宗派の違いを越えた深い信頼で結ばれていた。まだ幼少のエリザベスは、初めての母親らしい存在となったキャサリンに特に懐いたようで、彼女を「大好きなお母様」と呼んだ手紙が残っている。子女たちが王族としての深い教養を身に着けられたのも、聡明な王妃が勉学環境に心を砕いた賜物だった。だから彼女無くして女王無しなんです。

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書いた人 1526年、ホルバインはエラスムスの紹介で、トマス・モアを頼ってロンドンへ渡った。1528年いったん帰国するが、1532年には再びロンドンへ渡っている。1536年には年30ポンドの契約でイングランドヘンリー8世の宮廷画家となった 。ヘンリー8世は、自分にとって不要になった王妃や、自分に意見をした側近のモアを反逆罪にかけて処刑するなど、残忍非情な人物であったが、ホルバインはヘンリー8世から大いに気に入られたようで、ヘンリー8世自身の肖像画をはじめ宮廷の関係者たちの肖像画を多数製作している。

そして血だらけのメアリー「ブラッディ・メアリー」 (Bloody Mary)

プロテスタントを迫害し、女性や子供を含む約300人を処刑したため。

「Entry of Queen Mary I with Princess Elizabeth into London in 1553」(1919)

フェリペ2世との結婚
母方からスペイン(カスティーリャアラゴン)王家の血を引くメアリーは、結婚の相手に従兄カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかしカトリック宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する者も多かったが、その反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、想像妊娠だった上、実は卵巣腫瘍を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測されている。

King PhilipII of Spain.jpgSpanish: Retrato del rey Felipe II de España (1527-1598) Edit this at Wikidata
Philips II (1527-1598), King of Spainスペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。

で彼と交戦した時の女王が即位衣を纏うって1558年=26歳?

QE2は何歳だったっけ?

ヘンリー8世の王女として生まれたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。弟のエドワード6世はジェーン・グレイへの王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続くカトリックメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世崩御すると王位を継承した。で彼女QE1もいろいろ、あります。呪われた王室とは言わないけれど、王様も女王様も大変なんだね。

金も地位も3代目でも無いけど庶民でよかった