https://video.wixstatic.com/video/d3aa22_30144faf71c847d4891344ef5b8a8824/1080p/mp4/file.mp4
ってプリント学習を昔々作りました。で、紙面の右と左で解答はできるのですが。
そこに何の意味があるのだいって気分で落ち込みました。大体都立高校は白黒印刷!
まあ某社のワークシートをそのままパクっただけです。ポイントは月が違う(露暦)
革命歌とともにお楽しみください。https://youtu.be/KFlGfHCCZdQ
更にそれを課題学習風にすると、あらどうでしょう!勉強した雰囲気になります。
で、ここからが大切! アカから暗黒へ
で、源流に立ち戻ってみましょう。
昔々なら頻出だったけど...
今では顰蹙? 社会が右傾化?
革命未だならず by ならず者国家?
台湾の台北の中心部にもある中山路
时至今日,中山北路、中山路、中山东路,依然是南京最主要的城市干道 これは南京
そして北京市 ここ(右上)はどこかな? 文字が略され過ぎててよく分からん。
あ、あの盧溝橋も近いよ。what was the marco polo bridge incident?
この曲もよい
世情 [Sejou] / 中島みゆき [Miyuki Nakajima] Unplugged cover by Ai Ninomiya - YouTube
レーニンの封印列車
窓を隠した不気味な封印列車が、ヨーロッパ大陸を行く。
1917年4月9日、チューリヒを出発し、ベルリン、ストックホルム、フィンランドの水の町トルニオをへて、4月16日、ロシアの帝都ペトログラードに到着した。列車から降り立ったのは、黒帽子とヒゲ面の男、ウラジーミル・レーニンである。ロシア革命を成し遂げ、史上初の社会主義国家「ソビエト連邦」を樹立した革命家だ。
じつは、この封印列車を手配したのは、ロシア政府ではなくドイツ政府だった。この頃、第一次世界大戦の最中で、ロシアとドイツは敵対していたから、レーニンは敵国の助けで帰国?
しかも、列車の窓は隠され、外から車内が全く見えない?
一体、何がおきていたのか?
複雑な事情が重なっていた。
まず、封印列車の始発駅は、スイスのチューリッヒ。レーニンはロシア政府から追われ、スイスに亡命していたのである。レーニンはロシア政府の敵なので、ドイツにとって敵の敵、つまり味方。だが、ドイツ政府にはもっと分かりやすい動機があった。レーニンは革命家なので、ロシアに帰国すれば、革命で国をかき回すので、ドイツにとって都合がいい。そこで、ドイツ政府はレーニンとお仲間のボリシェヴィキ(革命左派)をまとめて、ロシアの帝都まで運んだのである。
とはいえ、レーニンは危険人物だ。革命思想をドイツ国内で巻き散らかされては困る。そこで、列車がドイツ領内を通過中は、レーニンは列車から降りないこと、ドイツ市民とは接触しないこと、が確約されていた。だから、封印列車なのである
帝都ペトログラードに着いた翌日、レーニンは「四月テーゼ」を発表する。レーニン式・革命の基本綱領で、プロレタリアートの行動指針が定められた。プロレタリアートとは、自分の労働力以外売るものがない無産階級である。
四月テーゼの基本は2つ。
第一に、時のロシア政権「臨時政府」をブルジョワ政府と見なし、決別する。ブルジョワとはプロレタリアートの反対言葉で、資産をもつ有産階級である。レーニンの同志はプロレタリアートで、ブルジョワではないのだ。
第二に、祖国防衛を拒否し、全権力をソビエト(社会主義評議会)へ移行することに、全力をあげる。
レーニンの革命の成功は「第二」によるところが大きい。外の問題(第一次世界大戦)より、内の問題(革命)を優先したからである。一方、その真逆の方法で失敗した人物がいる。中国の内戦で敗れた蒋介石だ。