fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

こんなこともあるから!検証型授業に向けて

サルは木から落ちるし、山には芝刈りの爺さんもいるし、川にはももも流れる。でもあの国家(USA)の国歌だからもっと気にした方がよいのでは?

安保の根幹にかかわる問題が、、、あんぽんたんじゃ困る。

これぞ深い学びができる教材であることは確実だね。

f:id:fujinosekaic:20180109164513p:plain

むしろコングリーヴ・ロケット?! 

どうも

巨大なロケット花火のようなものであった。弾頭は黒色火薬が1kgから10kg用いられており、初期には事故が多発していた。それでも3kmという当時としては長大な射程を持ち、イギリス軍はナポレオン戦争米英戦争でこれを用いている。米英戦争におけるマクへンリー砦の戦いに題材を採っているアメリカ国歌には、「rocket」の語が登場する歌詞の一節があるが、これはコングリーヴ・ロケットのことを指している。

ここです!米英戦争1812年に行われた米英戦争の間、イギリス軍はブラーデンスバーグの戦いでロケットを投入した。これによりワシントンD.C.は炎上して降伏に至った。これがホワイトハウスの白色の理由ですが。手じかにあった白い塗料で補修・改修=リフォームしたのね!で、1814年のイギリス軍によるフォートマクヘンリーの砲撃ではコングリーヴ・ロケットが投入され、これはアメリカ合衆国国歌である星条旗の、初節第5行の歌詞の元となった。"And the rockets’ red glare, the bombs bursting in air".(ロケットは赤く輝き、爆弾は中空で爆ぜた)。イギリス海軍火船であるHMSエレバスは、主甲板下に設けたロケット砲列から32ポンド(約14.5kg)ロケットを撃ち出した。これは艦の舷側にある砲門もしくは舷窓を通して射撃している。It was the use of ship-launched Congreve rockets by the British in the bombardment of Fort McHenry in the US in 1814 that inspired the fifth line of the first verse of the United States' National Anthem,

ここです、

f:id:fujinosekaic:20190131161014j:plain

この砦が受けた唯一の攻撃が米英戦争の時のボルティモアの戦いで艦隊によるものであった。1814年9月13日の夜明け時に始まったイギリス艦船による艦砲射撃は激しい雨の中を25時間続いた。アメリカ守備軍の大砲は18、24、および38ポンド砲であり、射程は1.5マイル (2.4 km)であった。イギリス艦隊の射程は2マイル (3.2 km)であり、コングリーヴ・ロケット弾は1.75マイル (2.8 km)だったが、あまり正確ではなかった。イギリスの艦船は海中に張られた鎖、沈船および砦の大砲によって、砦の横を通り過ぎることができず、港の中に入れなかった。しかし、イギリス艦船は砦に近づいてロケット弾や迫撃砲弾を撃ち込むことができた。イギリスの武器の精度の悪さとアメリカ軍の大砲の射程制限によって、どちらの側も損害はほとんどなかったが、イギリス軍は9月14日まで攻撃を止めなかった。イギリス海軍によるボルティモア侵攻は食い止められた。

で、以下にこんな記述を発見

Michael Edson (14 August 2015). Publishing, Editing, and Reception: Essays in Honor of Donald H. Reiman. University of Delaware Press. pp. 16–. ISBN 978-1-61149-579-9.

f:id:fujinosekaic:20190131160208p:plain

まあ、イギリス側の犠牲は士官2名と兵士7名で何千人の沿岸部住民(民間人)の犠牲だからね。

Opium Wars

Congreve rockets were used from the bombardment of the Canton ports, by Nemesis (1839) in January 1841[25], to their use at the Battle of Palikao, in September 1860.

フリー百科事典:ウィキペディアより

ということで船籍もイギリス東インド会社であることから、イギリス海軍の艦砲射撃ではなかった確率が高い。

本国イギリスに先駆けて、木造船を廃止し、全ての船を汽船に転換する事により、海軍組織の生き残りにかけ、それに成功した。汽船の活躍は、1839年アデン占領、1840年からのアヘン戦争1846年ニュージーランド遠征、1852年第二次ビルマ戦争1855年からのイギリス・ペルシャ戦争、1858年におけるインド大反乱と同時期に展開されたアロー戦争で確認する事ができる[34]横井勝彦 『アジアの海の大英帝国講談社学術文庫2004年、pp.211-223。ISBN 978-4-06-1596412 

ってことですね。ただまだ疑問なんだが、なぜに船籍が東インド会社なんだ?また、建造進水後の動きに疑問も残る。まあ少なくてもこのサイズの船で中国までは大変だよね。

で、こういう記録も発見!

Narrative of a voyage round the world : performed in Her Majesty's ship Sulphur, during the years 1836-1842, including details of the naval operations in China, from Dec. 1840, to Nov. 1841 ; published under the authority of the lords commissioners of the Admiralty

by Belcher, Edward, Sir, 1799-1877; Hinds, Richard Brinsley; Great Britain. Admiralty

f:id:fujinosekaic:20190131163756j:plain

ネメシスではないけれど。こんな感じで戦ったということか?
でも攻撃している相手の距離は近いですよね。ということはますますこの説明は怪しい。

f:id:fujinosekaic:20190131164152j:plain

ある種の誘導的な意味があるような。近代化した欧米:大英帝国海軍に負ける遅れたアジア:China.って山川さんp296説明してください。

一説には右端のボートからのロケット攻撃で火薬に引火して爆発って説もあるし、、、、

f:id:fujinosekaic:20190131164908p:plainだいたいさ、ジャンク船は水密隔壁(船体が多数の梁と呼ばれる壁で区切られている)でできているから簡単には沈まないだよね。鄭和の遠征の時に勉強したろ!

射程2000m?以下で攻撃!

ポンド32 pdr 口径163.32㎜ 砲重量2.44t

砲身長2.89m 射程1,901.95m  (5度仰角で飛ぶ距離)=2KM

6ポンド 6 pdr 93.47㎜ 2.43m 0.78t

f:id:fujinosekaic:20190131114159j:plainHMS Victory 104-gun first-rate ship of the line of the Royal Navy launched 1765 進水=約100年前の艦.

Nelson's flagship, Trafalgarの海戦in 1805vsフランス

f:id:fujinosekaic:20190129142142j:plain

その威力と命中精度から、大抵は距離数百m以下の接近戦

f:id:fujinosekaic:20190131114454j:plain

 

104門 (トラファルガーの海戦時)=片側はいくつ?難問?52だ!
上砲列:12ポンド(5kg)砲30門
中砲列:24ポンド(11kg)砲28門
下砲列:32ポンド(15kg)砲30門  三層目の砲が32pdr
後甲板:12ポンド(5kg)砲12門
船首楼:12ポンド(5kg)砲2門+68ポンド(31kg)カロネード砲2門

f:id:fujinosekaic:20190131121250j:plain1822年、ロンドン国立海事博物館

Joseph Mallord William Turner、1775年4/23 - 1851年12/19 

 

ネメシス

History

Name:

Nemesis

Owner:

East India Company

Builder:

Birkenhead Iron Works

Launched:

1839

Commissioned:

March 1840[1]

General characteristics

Class and type:

Paddle frigate[2]

Tons burthen:

660 bm

Length:

184 ft (56 m)

Beam: 船幅

29 ft (8.8 m)

Draught:喫水

6 ft (1.8 m)

Propulsion:

Twin 60 horsepower George Forrester & Co. steam engines[3]

Armament:武装 

2 x 32 pdr,  4 x 6 pdr

苦労したのはアラブ人

読むのも一苦労。でも読む力は重要。なれよなれ。慣れよ為れ。

f:id:fujinosekaic:20190128173648p:plain

一部紹介:どこからの引用かもわからなくなった、、、誰かわかる人いればありがたいです。

ヨーロッパ人にとって、アジアへの最短距離を可能とする地中海─紅海を結ぶ運河は長年の夢だった。ナイルと航海を結ぶ運河は、すでに古代エジプト、紀元前 2000年に造られていたと言われている。 近代に入ってからも、東方貿易を行ったヴェネツィア商人やルイ14世、ナポレオンが構想している。

中でもナポレオンは、エジプト遠征に同行させた学術調査団に実際に測量をさせている。調査団の出した結論は、紅海と地中海の水位差が10mに及ぶため工事は無理であるというものだった。ところが実際にはその調査結果は誤りであり、実際には水位差は1~2mにすぎず、陸地はほぼ平坦で、しかも途中に散在する湖を結べば運河の建設は可能だったのである。

フランス人レセップスによる運河建設そのことに気づいたのは、フランスの外交官フェルナンド ・ド・レセップスだった。1805年よりエジプトは、事実上太守ムハンマド・アリー支配下に置かれていた。彼は近代的軍隊の創設、教育改革、工業の振興などエジプトの近代化に努めたが、彼を助けたのがナポレオンによってエジプト大使に任命されたレセップスの父だった。レセップス自身も父を継いで外交官になるが、彼は外交官の職を辞してまでスエズ運河の建設に全精力を注ぐことになる。

レセップスはムハンマドの息子サイド・パシャに巧みに接近し、1854年、念願のスエズ運河建設の許可書を手にする。1858年、資本金2億フランの国際スエズ運河会社が設立され、 40万株が公募された。その過半数にあたる20万7,160株をフランス人が、17万7,642株をエジプト政府が引き受けた。このころイギリスは、インドへのルートとして、スエズアレクサンドリア間の鉄道建設を始めており 、レセップスの運河計画に激しく反対していた。だから、イギリスからはもちろん1株の申込みもなかった。

 

スエズ運河が完成し、喜望峰回りの半分の距離でインドに達することができるようになると、あれほど運河建設に反対していたイギリスの態度は一変する。1870年、レセップスはロンドンに招かれ、ヴィクトリア女王から勲章を受けた。また、スエズ運河を利用する船も、毎年一番多いのはイギリス船であった。そこで、イギリスは、運河株式会社の株を買入れるチャンスを虎視眈々と狙うようになった。チャンスは意外と早くめぐってくる。ヨーロッパ諸国からの負債によって着々と行政・司法・軍事の近代化を進めてきたエジプト政府が、いよいよ借金でクビが回らなくなってしまったのである。とうとうパシャは、 1875年11月、スエズ運河会社の株17万6602株を売り出すことにし、その旨フランス政府に伝えられた。しかし、フランスの事情は、スエズ運河開通後1年で大きく変わってしまっていたのである。 1870年、ナポレオン3世は普仏戦争に敗れ退位、フランスはドイツによって50億フランもの賠償金を課せられた。こういうなかではとても巨額のエジプトの持ち株を買い取る余裕はなかったのである。

Benjamin Disraeli 
スペルアウトするとすごい名前だと思いませんか?
1st Earl of Beaconsfield 

f:id:fujinosekaic:20190128174425j:plain鼻も高いけどね!女王陛下

1875年11月14日の夕刻、イギリス首相ディズレイリは、ユダヤ人の大富豪ロスチャイルド邸で主人のライオネルと夕食をともにしていた。そこへ召使が一通の電報をもってきた。それは、エジプトのパシャがスエズ運河の株を売り出そうとしている、という極秘情報であった。値段は1億フラン (400万ポンド)だという。「よし、買おう」と首相は言った。翌月曜日、ディズレイリは、買収の費用全額をロスチャイルド家から借金することに決め、閣僚の委任を取りつけると、すぐさま馬車をロスチャイルド家に走らせた。「政府は明日までに 400万ポンドをぜひとも必要としております。よろしく」。ライオネルはこの伝言を聞くと、「よろしい、ご用立てしましょう」といとも簡単に答えたという。返事を聞いたディズレイリは、ヴィクトリア女王に次のような報告をした。“It is Yours, Madame.”48時間後には、エジプト所有のスエズ運河株式会社の株がイギリス政府に渡った。イギリスにとって、西アジアからインドにかけての帝国主義的戦略において、扇のかなめにあたるスエズ運河の管理に圧倒的な発言権を得たことは非常に大きな意味があった。いっぽう、エジプトの財政は、運河会社の株を手放したところで焼け石に水であった。結局、エジプトの財政は、イギリス・フランス両国から財政監督官が派遣されて、歳入・歳出を管理することになった。そして、 1881~82年に起こったアラービー=パシャの乱を単独で鎮めたイギリスが、以後72年間にわたってスエズ運河地帯を支配下に置くことになる。

f:id:fujinosekaic:20190128174617j:plainf:id:fujinosekaic:20190128174722j:plain