fujinosekaic’s 世界史授業備忘録

世界史教員生活30年記念

あいなき時代の共通テスト世界史分析③ WDCのC

サミットや国際会議で英語の出来ない日本の政治家のコメントをしたけど、この主題も裏を考えると、「よく考えられて」いるなと一人笑いをしながらの解答分析である。もうちっと言うと、「国語」と「国民」と「労働力」があまりにもガチガチになっている日本だと考えられない事かもしれない。でも、既に政府・自民党外国人労働者の導入を規定路線というか、単純労働者を含めて既に国民が知らないところで始まっていたという過去完了形でしょ。更に訳判らない規範意識同調圧力という目に見えない「酷語」と受験「英語」で苦しむ生徒達。コンビニのバイトすら奪われた日本の若者。

ある意味そこに愛はあるのか? 残念ながら日本には「I」は無いのか?I think,too.

自己決定権と未来に希望無き日本には泣きだよ。嫌なら「鎖国か?」って脅しだし。

今年の問題は問題文を普通に読めば知識が多くなくても解答できる傾向が高杉晋作!!

され、出題レベルとしてはこんなんでいいんかい?ってレベルのフランス語訳?だし。

1488年、南緯29度、現南アフリカ共和国のポート・ノロス付近でディアスは、嵐に遭って13日間漂流していた。嵐が過ぎて陸地から離れてしまった事に気付いたディアスは陸地に近付くために東進するが、陸地に到達しない。そのため北上してみると、陸地が西側に現れた。ディアス達は気付かないうちにアフリカ南端を通り過ぎていた事になる。2月3日にモッセル湾(英語版)に上陸。これをもって「ディアスのアフリカ南端到達」としている。

ディアスはアフリカ南端のアガラス岬、南岸のグレート・フィッシュ川を巡り、このまま行けばインドまで到達する事がはっきりした段階で引き返した。これは乗組員の不満を抑えきれなくなったための妥協の結果と言われている。

1488年5月、帰路に喜望峰を発見する。「ディアスの喜望峰発見」とはこの時であり、資料によってはアフリカ南端到達時期と混同されることがある。

リスボンへの帰還
1488年12月、実に16ヶ月と17日に及ぶ(約2030kmの未知のアフリカの海岸に渡る)航海を終えたディアスはリスボンに帰港し、ジョアン2世に成果を報告した。ディアスは当初、その苦難の航程から「喜望峰」ではなく「嵐の岬」(Cabo das Tormentas) として報告していた。だが、東方への道を開くという成果に喜んだジョアン2世が「喜望峰」(Cabo da Boa Esperança) として名前を変えさせた。

その後のディアス
1497年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航海に際しては、彼も水先案内人として(しかし確実に従属的な立場で)艦隊に参加し、ヴェルデ岬まで同行している。

1500年、ペドロ・アルヴァレス・カブラルのブラジル探検隊に参加し、ブラジル発見に立ち会うが、帰途の海難事故のため他界。

それにしても本文をちゃんと読めば解答できるって、

今までの反省?への過剰反応?これで予想配点4点?
てか、まだこの段階で「帝国主義」って概念あんのか?

まあローマも「帝国」だが。そんな意識あったんだろうか?

 
これだけ裏金問題by○○党A派は何人逮捕か?でもめている日本なんなんで「必ず裏がある」かと必死に考えたんですが、この世界史なのに「国語」の問題には何にもありませんでした。これまであれだけ日本語を大量に読ませてきた(読んでも解答には関係ない文字だけの嫌がらせ?)センター/共通テスト世界史なんで何かあるだろうと考えたけど、、、、何にもなかった。
ジーパン刑事じゃないけど「なんじゃこりゃ」だわ。南無!